上野の森を一《ひと》のしに、濠端《ほりばた》の松まで飛んで出た。かしこの威徳|衰《おとろ》へたりと雖《いえど》も、さすがは征夷《せいい》大将軍の居城《きょじょう》だ、何処《いずこ》の門も、番衆、見張、厳重にして隙間《すきま》がない。……ぐるり/\と窺《うかが》ふうちに、桜田門の番所|傍《そば》の石垣から、大《おおき》な蛇《へび》が面《つら》を出して居るのを偶《ふ》と見つけた。霞《かすみ》ヶ|関《せき》には返り咲《ざき》の桜が一面、陽気はづれの暖かさに、冬籠《ふゆごも》りの長隠居、炬燵《こたつ》から這出《はいだ》したものと見える。早《は》や往来《おうらい》は人立《ひとだち》だ。
 処《ところ》へ、遙《はるか》に虚空《こくう》から大鳶《おほとび》が一羽《いちわ》、矢のやうに下《おろ》いて来て、すかりと大蛇《おおへび》を引抓《ひきつか》んで飛ばうとすると、這奴《しゃつ》も地所持《じしょもち》、一廉《いっかど》のぬしと見えて、やゝ、其の手は食《く》はぬ。さか鱗《うろこ》を立てて、螺旋《らせん》に蜿《うね》り、却《かえ》つて石垣の穴へ引かうとする、抓《つか》んで飛ばうとする。揉《も》んだ、揉んだ。――いや、夥《おびただ》しい人群集《ひとだかり》だ。――そのうちに、鳶の羽《は》が、少しづゝ、石垣の間《あいだ》へ入る――聊《いささ》かは引いて抜くが、少しづゝ、段々に、片翼《かたつばさ》が隠れたと思ふと、するりと呑《の》まれて、片翼だけ、ばさ/\ばさ、……煽《あお》つて煽つて、大《おお》もがきに藻掻《もが》いて堪《こら》へる。――見物は息を呑《の》んだ。」
「うむ/\。」
 と、山伏《やまぶし》も息を呑む。
「馬鹿鵄《ばかとび》よ、くそ鳶《とび》よ、鳶《とんび》、鳶《とんび》、とりもなほさず鳶《とび》は愚僧だ、はゝゝゝ。」
 と高笑ひして、
「何と、お行者《ぎょうじゃ》、未熟なれども、羽黒の小法師《こほうし》、六|尺《しゃく》や一|丈《じょう》の蛇《ながむし》に恐れるのでない。こゝが術《て》だ。人間の気を奪ふため、故《ことさ》らに引込《ひきこ》まれ/\、やがて忽《たちま》ち其《その》最後の片翼《かたつばさ》も、城の石垣につツと消えると、いままで呼吸《いき》を詰めた、群集《ぐんじゅ》が、阿《あ》も応《おう》も一斉《いっとき》に、わツと鳴つて声を揚げた。此の人声《ひとごえ》に驚いて、番所の棒が揃《そろ》つて飛出《とびだ》す、麻上下《あさがみしも》が群れ騒ぐ、大玄関《おおげんかん》まで騒動の波が響いた。
 驚破《すわ》、そのまぎれに、見物の群集《ぐんじゅ》の中から、頃合《ころあい》なものを引攫《ひきさら》つて、空からストンと、怪我《けが》をせぬやうに落《おと》いた。が、丁度《ちょうど》西の丸の太鼓櫓《たいこやぐら》の下の空地だ、真昼間《まっぴるま》。」
「妙《みょう》。」
 と、山伏がハタと手を搏《う》つて、
「御坊《ごぼう》が落した、試みのものは何ぢや。」
「屑屋《くずや》だ。」
「はて、屑屋とな。」
「紙屑買《かみくずかい》――即《すなわ》ち此だ。」
 と件《くだん》の大笊《おおざる》を円袖《まるそで》に掻寄《かきよ》せ、湖の水の星あかりに口を向けて、松虫《まつむし》なんぞを擽《くすぐ》るやうに笊《ざる》の底を、ぐわさ/\と爪で掻くと、手足を縮めて掻《かい》すくまつた、垢《あか》だらけの汚《きたな》い屑屋が、ころりと出た。が、出ると大きく成つて、ふやけたやうに伸びて、ぷるツと肩を振つて、継ぎはぎの千草《ちぐさ》の股引《ももひき》を割膝《わりひざ》で、こくめいに、枯蘆《かれあし》の裡《なか》にかしこまる。
 此の人間の気が、ほとぼりに成つて通《かよ》つたと見える。ぐたりと蛙《かえる》を潰《つぶ》したやうに、手足を張つて平《へた》ばつて居た狂気武士《きちがいざむらい》が、びくりとすると、むくと起きた。が、藍《あい》の如き顔色《がんしょく》して、血走つたまゝの目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りつつ、きよとりとして居る。

        四

 此の時代の、事実として一般に信ぜられた記録がある。――薩摩《さつま》鹿児島に、小給《しょうきゅう》の武士の子で年《とし》十四に成るのが、父の使《つかい》に書面を持つて出た。朝|五《いつ》つ時《どき》の事で、侍町《さむらいまち》の人通りのない坂道を上《のぼ》る時、大鷲《おおわし》が一羽、虚空《こくう》から巌《いわ》の落下《おちさが》るが如く落して来て、少年を引掴《ひっつか》むと、忽《たちま》ち雲を飛んで行く。少年は夢現《ゆめうつつ》ともわきまへぬ。が、とに角《かく》大空を行くのだから、落つれば一堪《ひとたま》りもなく、粉微塵《こなみじん》に成ると覚悟して、風を切る黒き帆のやうな翼の下に成る
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