妖魔の辻占
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)文政《ぶんせい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三|間《げん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶる/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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        一

 伝へ聞く……文政《ぶんせい》初年の事である。将軍家の栄耀《えよう》其極《そのきょく》に達して、武家の代《よ》は、将《まさ》に一転機を劃《かく》せんとした時期だと言ふ。
 京都に於て、当時第一の名門であつた、比野大納言資治卿《ひのだいなごんやすはるきょう》(仮)の御館《みたち》の内に、一日《あるひ》偶《ふ》と人妖《じんよう》に斉《ひと》しい奇怪なる事が起つた。
 其《そ》の年、霜月《しもつき》十日は、予《かね》て深く思召《おぼしめ》し立つ事があつて、大納言卿、私《わたくし》ならぬ祈願のため、御館の密室に籠《こも》つて、護摩《ごま》の法を修《しゅ》せられた、其の結願《けちがん》の日であつた。冬の日は分けて短いが、まだ雪洞《ぼんぼり》の入らない、日暮方《ひくれがた》と云ふのに、滞《とどこお》りなく式が果てた。多日《しばらく》の精進潔斎《しょうじんけっさい》である。世話に云ふ精進落《しょうじんおち》で、其辺《そのへん》は人情に変りはない。久しぶりにて御休息のため、お奥に於て、厚き心構《こころがまえ》の夕餉《ゆうがれい》の支度が出来た。
 其処《そこ》で、御簾中《ごれんちゅう》が、奥へ御入《おんい》りある資治卿を迎《むかえ》のため、南御殿《みなみごてん》の入口までお立出《たちいで》に成る。御前《おんまえ》を間《あわい》三|間《げん》ばかりを隔《へだ》つて其の御先払《おさきばらい》として、袿《うちぎ》、紅《くれない》の袴《はかま》で、裾《すそ》を長く曳《ひ》いて、静々《しずしず》と唯《ただ》一人、折《おり》から菊、朱葉《もみじ》の長廊下《ながろうか》を渡つて来たのは藤《ふじ》の局《つぼね》であつた。
 此《こ》の局は、聞えた美女で、年紀《とし》が丁《ちょう》ど三十三、比野《ひの》の御簾中と同年であつた。半月ばかり、身にいたはりがあつて、勤《つとめ》を引いて引籠《ひきこも》つて居たのが、此の日|修法《しゅほう》ほどき、満願の御二方《おふたかた》の心祝《こころいわい》の座に列するため、久しぶりで髪容《かみかたち》を整へたのである。畳廊下《たたみろうか》に影がさして、艶麗《えんれい》に、然《しか》も軟々《なよなよ》と、姿は黒髪とともに撓《しな》つて見える。
 背後《うしろ》に……たとへば白菊《しらぎく》と称《とな》ふる御厨子《みずし》の裡《うち》から、天女《てんにょ》の抜出《ぬけい》でたありさまなのは、貴《あて》に気高い御簾中である。
 作者は、委《くわ》しく知らないが、此《これ》は事実ださうである。他《た》に女《め》の童《わらわ》の影もない。比野卿の御館《みたち》の裡《うち》に、此の時卿を迎ふるのは、唯《ただ》此の方《かた》たちのみであつた。
 また、修法の間《ま》から、脇廊下《わきろうか》を此方《こなた》へ参らるゝ資治卿の方は、佩刀《はかせ》を持つ扈従《こしょう》もなしに、唯《ただ》一人なのである。御家風《ごかふう》か質素か知らない。此の頃の恁《こ》うした場合の、江戸の将軍家――までもない、諸侯《だいみょう》の大奥と表《おもて》の容体《ようだい》に比較して見るが可《よ》い。
 で、藤の局《つぼね》の手で、隔てのお襖《ふすま》をスツと開《あ》ける。……其処《そこ》で、卿と御簾中《ごれんちゅう》が、一所《いっしょ》にお奥へと云ふ寸法であつた。
 傍《かたわら》とも云ふまい。片あかりして、冷《つめた》く薄暗い、其の襖際《ふすまぎわ》から、氷のやうな抜刀《ぬきみ》を提げて、ぬつと出た、身の丈《たけ》抜群な男がある。唯《と》、間《なか》二三|尺《じゃく》隔てたばかりで、ハタと藤の局と面《おもて》を合せた。
 局が、其の時、はつと袖屏風《そでびょうぶ》して、間《なか》を遮《さえぎ》ると斉《ひと》しく、御簾中の姿は、すつと背後向《うしろむき》に成つた――丈《たけ》なす黒髪が、緋《ひ》の裳《もすそ》に揺《ゆら》いだが、幽《かすか》に、雪よりも白き御横顔《おんよこがお》の気高さが、振向《ふりむ》かれたと思ふと、月影に虹《にじ》の影の薄れ行く趣《おもむき》に、廊下を衝《つつ》と引返《ひきかえ》さる。
「一《ひと》まづ。」
 と、局が声を掛けて、
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