腰をなよやかに、片手を膝《ひざ》に垂れた時、早《は》や其の襖際に気勢《けはい》した資治《やすはる》卿の跫音《あしおと》の遠ざかるのが、静《しずか》に聞えて、もとの脇廊下《わきろうか》の其方《そなた》に、厳《おごそか》な衣冠束帯《いかんそくたい》の姿が――其の頃の御館《みたち》の状《さま》も偲《しの》ばれる――襖《ふすま》の羽目《はめ》から、黄菊《きぎく》の薫《かおり》ともろともに漏《も》れ透いた。
藤の局は騒がなかつた。
「誰《たれ》ぢや、何ものぢや。」
「うゝ。」
と呻《うめ》くやうに言つて、ぶる/\と、ひきつるが如く首を掉《ふ》る。渠《かれ》は、四十ばかりの武士《さむらい》で、黒の紋着《もんつき》、袴《はかま》、足袋跣《たびはだし》で居た。鬢《びん》乱れ、髻《もとどり》はじけ、薄痘痕《うすあばた》の顔色《がんしょく》が真蒼《まっさお》で、両眼《りょうがん》が血走つて赤い。酒気は帯びない。宛如《さながら》、狂人、乱心のものと覚えたが、いまの気高い姿にも、慌《あわ》てゝあとへ退《ひ》かうとしないで、ひよろりとしながら前へ出る時、垂々《たらたら》と血の滴《したた》るばかり抜刀《ばっとう》の冴《さえ》が、脈《みゃく》を打つてぎらりとして、腕はだらりと垂れつつも、切尖《きっさき》が、じり/\と上へ反《そ》つた。
局《つぼね》は、猶予《ためら》はず、肩をすれ違ふばかり、ひた/\と寄添《よりそ》つて、
「其方《そなた》……此方《こちら》へ。」
ひそみもやらぬ黛《まゆずみ》を、きよろりと視《み》ながら、乱髪抜刀の武士《さむらい》も向きかはつた。
其《それ》をば少しづゝ、出口へ誘ふやうに、局は静々《しずしず》と紅《くれない》の袴を廊下に引く。
勿論、兇器《きょうき》は離さない。上《うわ》の空《そら》の足が躍《おど》つて、ともすれば局の袴に躓《つまず》かうとする状《さま》は、燃立《もえた》つ躑躅《つつじ》の花の裡《うち》に、鼬《いたち》が狂ふやうである。
「関東の武家のやうに見受けますが、何《ど》うなさつた。――此処《ここ》は、まことに恐《おそれ》多い御場所《ごばしょ》。……いはれなう、其方《そなた》たちの来る処《ところ》ではないほどに、よう気を鎮《しず》めて、心を落着けて、可《よ》いかえ。咎《とが》も被《き》せまい、罪にもせまい。妾《わらわ》が心で見免《みのが》さうから、可《よ》いかえ、柔順《おとな》しく御殿を出《で》や。あれを左へ突当《つきあた》つて、ずツと右へ廻つてお庭に出《で》や。お裏門の錠はまだ下りては居《い》ぬ。可《よ》いかえ。」
「うゝ。」
「分つたな。」
「うーむ。」
雖然《けれども》、局《つぼね》が立停《たちどま》ると、刀とともに奥の方へ突返《つっかえ》らうとしたから、其処《そこ》で、袿《うちぎ》の袖《そで》を掛けて、曲《くせ》ものの手を取つた。それが刀を持たぬ方の手なのである。荒《あら》き風に当るまい、手弱女《たおやめ》の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《じょうろう》の此の振舞《ふるまい》は讃歎に値する。
さて手を取つて、其のまゝなやし/\、お表出入口の方へ、廊下の正面を右に取つて、一曲《ひとまが》り曲つて出ると、杉戸《すぎと》が開《あ》いて居て、畳《たたみ》の真中に火桶《ひおけ》がある。
其処《そこ》には、踏んで下りる程の段はないが、一段低く成つて居た。ために下りるのに、逆上した曲ものの手を取つた局は、渠《かれ》を抱くばかりにしたのである。抱くばかりにしたのだが、余所目《よそめ》には手負《てお》へる鷲《わし》に、丹頂《たんちょう》の鶴《つる》が掻掴《かいつか》まれたとも何ともたとふべき風情《ふぜい》ではなかつた。
折悪《おりあし》く一人の宿直士《とのい》、番士《ばんし》の影も見えぬ。警護の有余《ありあま》つた御館《おやかた》ではない、分けて黄昏《たそがれ》の、それぞれに立違《たちちが》つたものと見える。欄間《らんま》から、薄《うす》もみぢを照《てら》す日影が映《さ》して、大《おおき》な番火桶《ばんひおけ》には、火も消えかゝつて、灰ばかり霜《しも》を結んで侘《わび》しかつた。
局が、自分|先《ま》づ座に直《なお》つて、
「とにかく、落着いて下に居《い》や。」
曲《くせ》ものは、仁王立《におうだち》に成つて、じろ/\と瞰下《みおろ》した。しかし足許《あしもと》はふら/\して居る。
「寒いな、さ、手をかざしや。」
と、美しく艶《えん》なお局《つぼね》が、白く嫋《しなや》かな手で、炭《す》びつを取つて引寄せた。
「うゝ、うゝ。」
とばかりだが、それでも、どつかと其処《そこ》に坐つた。
「其方《そち》は煙草《たばこ》を持たぬかえ。」
すると、此の乱心ものは、慌《あわただ》
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