がまゝに身をすくめた。はじめは双六《すごろく》の絵を敷いた如く、城が見え、町が見え、ぼうと霞《かす》んで村里《むらざと》も見えた。やがて渾沌《こんとん》瞑々《めいめい》として風の鳴るのを聞くと、果《はて》しも知らぬ渺々《びょうびょう》たる海の上を翔《か》けるのである。いまは、運命に任せて目を瞑《つむ》ると、偶《ふ》と風も身も動かなく成つた。我に返ると、鷲《わし》は大《おおい》なる樹《き》の梢《こずえ》に翼を休めて居る。が、山の峰の頂《いただき》に、さながら尖塔《せんとう》の立てる如き、雲を貫《つらぬ》いた巨木《きょぼく》である。片手を密《そ》つと動かすと自由に動いた。
時に、脇指《わきゆび》の柄《え》に手を掛けはしたものの、鷲のために支へられて梢に留《と》まつた身体《からだ》である。――殺しおほせるまでも、渠《かれ》を疵《きず》つけて地に落されたら、立処《たちどころ》に五体が砕けよう。が、此のまゝにしても生命《いのち》はあるまい。何《ど》う処置しようと猶予《ためら》ふうちに、一打《ひとう》ち煽《あお》つて又飛んだ。飛びつつ、いつか地にやゝ近く、ものの一二|間《けん》を掠《かす》めると見た時、此の沈勇《ちんゆう》なる少年は、脇指を引抜《ひきぬ》きざまにうしろ突《づき》にザクリと突く。弱る処《ところ》を、呼吸《いき》もつかせず、三刀《みかたな》四刀《よかたな》さし通したので、弱果《よわりは》てて鷲が仰向《あおむ》けに大地に伏す、伏しつつ仰向けに飜《ひるがえ》る腹に乗つて、柔《やわらか》い羽根蒲団《はねぶとん》に包まれたやうに、ふはふはと落ちた。
恰《あたか》も鷲の腹からうまれたやうに、少年は血を浴びて出たが、四方、山また山ばかり、山嶽《さんがく》重畳《ちょうじょう》として更に東西を弁《べん》じない。
とぼ/\と辿《たど》るうち、人間の木樵《きこり》に逢《あ》つた。木樵は絵の如く斧《おの》を提げて居る。進んで礼して、城下を教へてと言つて、且《か》つ道案内《みちあんない》を頼むと、城下とは何んぢやと言つた。お城を知らないか、と言ふと、知んねえよ、とけろりとして居る。薄給でも其の頃の官員の忰《せがれ》だから、向う見ずに腹を立てて、鹿児島だい、と大きく言ふと、鹿児島とは、何処《どこ》ぢやと言ふ。おのれ、日本《にっぽん》の薩摩国《さつまのくに》鹿児島を知らぬかと呼ばはると、伸び/\とした鼻の下を漸《やっ》と縮めたのは、大《おおき》な口を開《あ》けて呆《あき》れたので。薩摩は此処《ここ》から何千里あるだい、と反対《あべこべ》に尋ねたのである。少年も少し心着《こころづ》いて、此処《ここ》は何処《どこ》だらう、と聞いた時、はじめて知つた。木曾の山中《やまなか》であつたのである。
此処《ここ》で、二人で、始めて鷲の死体を見た。
麓《ふもと》へ連下《つれくだ》つた木樵が、やがて庄屋《しょうや》に通じ、陣屋に知らせ、郡《こおり》の医師を呼ぶ騒ぎ。精神にも身体《からだ》にも、見事異状がない。――鹿児島まで、及ぶべきやうもないから、江戸の薩摩屋敷まで送り届けた。
朝|五《いつ》つ時《どき》、宙に釣《つ》られて、少年が木曾|山中《さんちゅう》で鷲の爪を離れたのは同じ日の夕《ゆうべ》。七つ時、間《あいだ》は五時《いつとき》十時間である。里数は略《ほぼ》四百里であると言ふ。
――鷲でさへ、まして天狗《てんぐ》の業《わざ》である。また武士《さむらい》が刀を抜いて居たわけも、此の辺で大抵想像が着くであらう。――
ものには必ず対《つい》がある、序《ついで》に言はう。――是《これ》と前後して近江《おうみ》の膳所《ぜぜ》の城下でも鷲が武士の子を攫《さら》つた――此は馬に乗つて馬場に居たのを鞍《くら》から引掴《ひっつか》んで上《あが》つたのであるが、此の時は湖水の上を颯《さっ》と伸《の》した。刀は抜けて湖《うみ》に沈んで、小刀《しょうとう》ばかり帯に残つたが、下《した》が陸《くが》に成つた時、砂浜の渚《なぎさ》に少年を落して、鷲は目の上の絶壁の大巌《おおいわ》に翼を休めた。しばらくして、どつと下《おろ》いて、少年に飛《とび》かゝつて、顔の皮を※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りくらはんとする処《ところ》を、一生懸命|脇差《わきざし》でめくら突《づ》きにして助かつた。人に介抱《かいほう》されて、後《のち》に、所を聞くと、此の方は近かつた。近江の湖岸で、里程は二十里。――江戸と箱根は是《これ》より少し遠い。……
それから、人間が空をつられて行く状《さま》に参考に成るのがある。……此は見たものの名が分つて居る。讃州高松《さんしゅうたかまつ》、松平侯の世子《せいし》で、貞五郎《ていごろう》と云ふのが、近習《きんじゅう》たちと、浜町《はまちょう》
前へ
次へ
全13ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング