矢の倉の邸《やしき》の庭で、凧《たこ》を揚げて遊んで居た。
 些《ち》と寒いほどの西風で、凧に向つた遙か品川の海の方から、ひら/\と紅《あか》いものが、ぽつちりと見えて、空中を次第に近づく。唯《と》、真逆《まっさかさ》になった[#「なった」はママ]女で、髪がふはりと下に流れて、無慙《むざん》や真白な足を空に、顔は裳《もすそ》で包まれた。ヒイと泣叫《なきさけ》ぶ声が悲しげに響いて、あれ/\と見るうちに、遠く筑波《つくば》の方へ霞《かす》んで了《しま》つた。近習たちも皆見た。丁《ちょう》ど日中《ひるなか》で、然《しか》も空は晴れて居た。――膚《はだ》も衣《きぬ》もうつくしく蓑虫《みのむし》がぶらりと雲から下《さが》つたやうな女ばかりで、他《た》に何も見えなかつた。が、天狗《てんぐ》が掴《つか》んだものに相違ない、と云ふのである。
 けれども、こゝなる両個《ふたつ》の魔は、武士《さむらい》も屑屋《くずや》も逆《さかさま》に釣《つ》つたのではないらしい。

        五

「ふむ、……其処《そこ》で肝要な、江戸城の趣《おもむき》は如何《いかが》であつたな。」
「いや以ての外《ほか》の騒動だ。外濠《そとぼり》から竜《りょう》が湧《わ》いても、天守へ雷《らい》が転がつても、太鼓櫓《たいこやぐら》の下へ屑屋が溢《こぼ》れたほどではあるまいと思ふ。又、此の屑屋が興《きょう》がつた男で、鉄砲笊《てっぽうざる》を担《かつ》いだまゝ、落ちた処《ところ》を俯向《うつむ》いて、篦鷺《へらさぎ》のやうに、竹の箸《はし》で其処等《そこら》を突《つっ》つきながら、胡乱々々《うろうろ》する。……此を高櫓《たかやぐら》から蟻《あり》が葛籠《つづら》を背負《しょ》つたやうに、小さく真下《まっした》に覗《のぞ》いた、係りの役人の吃驚《びっくり》さよ。陽《ひ》の面《おもて》の蝕《むしば》んだやうに目が眩《くら》んで、折からであつた、八《や》つの太鼓を、ドーン、ドーン。」
 と小法師《こほうし》なるに力ある声が、湖水に響く。ドーンと、もの凄《すご》く谺《こだま》して、
「ドーン、ドーンと十三打つた。」
「妙《みょう》。」と、又|乗出《のりだ》した山伏《やまぶし》が、
「前代未聞。」と言《ことば》の尾を沈めて、半《なか》ば歎息して云つた。
「謀叛人《むほんにん》が降つて湧いて、二《に》の丸《まる》へ取詰《とりつ》めたやうな騒動だ。将軍の住居《すまい》は大奥まで湧上《わきあが》つた。長袴《ながばかま》は辷《すべ》る、上下《かみしも》は蹴躓《けつまず》く、茶坊主《ちゃぼうず》は転ぶ、女中は泣く。追取刀《おっとりがたな》、槍《やり》、薙刀《なぎなた》。そのうち騎馬で乗出《のりだ》した。何と、紙屑買《かみくずかい》一人を、鉄砲づくめ、槍襖《やりぶすま》で捕《とら》へたが、見ものであつたよ。――国持諸侯《くにもちだいみょう》が虱《しらみ》と合戦《かっせん》をするやうだ。」
「真《まこと》か、それは?」
「云ふにや及ぶ。」
「あゝ幕府の運命は、それであらかた知れた。――」
「む、大納言殿|御館《おやかた》では、大刀《だんびら》を抜いた武士《さむらい》を、手弱女《たおやめ》の手一つにて、黒髪|一筋《ひとすじ》乱さずに、もみぢの廊下を毛虫の如く撮出《つまみだ》す。」
「征夷大将軍の江戸城に於ては、紙屑買|唯《ただ》一人を、老中《ろうじゅう》はじめ合戦の混乱ぢや。」
「京都の御《おん》ため。」
 と西に向つて、草を払つて、秋葉の行者《ぎょうじゃ》と、羽黒の小法師《こほうし》、揃《そろ》つて、手を支《つ》いて敬伏《けいふく》した。
「小虫《しょうちゅう》、微貝《びばい》の臣等《しんら》……」
「欣幸《きんこう》、慶福《けいふく》。」
「謹《つつし》んで、万歳を祝《しゅく》し奉《たてまつ》る。」

        六

「さて、……町奉行《まちぶぎょう》が白洲《しらす》を立てて驚いた。召捕《めしと》つた屑屋を送るには、槍、鉄砲で列をなしたが、奉行|役宅《やくたく》で突放《つっぱな》すと蟇《ひきがえる》ほどの働きもない男だ。横から視《み》ても、縦から視ても、汚《きたな》い屑屋に相違あるまい。奉行は継上下《つぎがみしも》、御用箱、うしろに太刀持《たちもち》、用人《ようにん》、与力《よりき》、同心徒《どうしんであい》、事も厳重に堂々と並んで、威儀を正して、ずらりと蝋燭《ろうそく》に灯《ひ》を入れた。
 灯を入れて、更《あらた》めて、町奉行が、余《あまり》の事に、櫓下《やぐらした》を胡乱《うろ》ついた時と、同じやうな状《さま》をして見せろ、とな、それも吟味《ぎんみ》の手段とあつて、屑屋を立たせて、笊《ざる》を背負《しょ》はせて、煮《に》しめたやうな手拭《てぬぐい》まで被《かぶ》らせた。が、猶《な
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