《きん》一円を抛《なげう》たむと言いあえりき、一夕《いっせき》お通は例の如く野田山に墓参して、家に帰れば日は暮れつ。火を点じて後、窓を展《ひら》きて屋外の蓮池《れんち》を背《せな》にし、涼を取りつつ机に向《むか》いて、亡き母の供養のために法華経《ほけきょう》ぞ写したる。その傍《かたわら》に老媼ありて、頻《しきり》に針を運ばせつ。時にかの蝦蟇法師は、どこを徘徊《はいかい》したりけむ、ふと今ここに来《きた》れるが、早くもお通の姿を見て、眼《まなこ》を細め舌なめずりし、恍惚《こうこつ》たるもの久しかりし、乞食僧は美人臭しとでも思えるやらむ、むくむく鼻を蠢《うごめ》かし漸次《しだい》に顔を近附けたる、面《つら》が格子を覗《のぞ》くとともに、鼻は遠慮なく内へ入《い》りて、お通の頬《ほお》を掠《かす》めむとせり。
 珍客《ちんかく》に驚きて、お通はあれと身を退《の》きしが、事の余りに滑稽《こっけい》なるにぞ、老婆も叱言《こごと》いう遑《いとま》なく、同時に吻々《ほほ》と吹き出しける。
 蝦蟇法師は※[#「りっしんべん+呉」、第3水準1−84−50]《あやま》りて、歓心を購《あがな》えりとや思いけむ
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