わしきを、蝦蟇法師は左瞻右視《とみこうみ》、或《あるい》は手を掉《ふ》り、足を爪立《つまだ》て、操人形が動くが如き奇異なる身振《みぶり》をしたりとせよ、何思いけむ踵《くびす》を返し、更に迂回《うかい》して柴折戸《しおりど》のある方《かた》に行《ゆ》き、言葉より先に笑懸けて、「暖き飯一|膳《ぜん》与えたまえ、」と巨《おおい》なる鼻を庭前《にわさき》へ差出しぬ。
未《いま》だ乞食僧を知らざる者の、かかる時不意にこの鼻に出会いなば少なくとも絶叫すべし、美人はすでに渠《かれ》を知れり。且つその狂か、痴《ち》か、いずれ常識無き阿房《あほう》なるを聞きたれば、驚ける気色も無くて、行水に乱鬢《みだれびん》の毛を鏡に対して撫附《なでつ》けいたりけり。
蝦蟇法師はためつすがめつ、さも審《いぶ》かしげに鼻を傾けお通が為《な》せる業《わざ》を視《なが》めたるが、おかしげなる声を発し、「それは」と美人の手にしたる鏡を指して尋ねたり。妙なることを聞く者よとお通はわずかに見返りて、「鏡」とばかり答えたり。阿房はなおも推返《おしかえ》して、「何《なん》の用にするぞ」と問いぬ。「姿を映して見るものなり、御僧《おんそう》も鼻を映して見たまえかし。」といいさま鏡を差向けつ。蝦蟇法師は飛退《とびすさ》りて、さも恐れたる風情にて鼻を飛ばして遁去《にげさ》りける。
これを語り次ぎ伝え聞きて黒壁の人々は明《あきら》かに蝦蟇法師の価値を解したり。なお且つ、渠等《かれら》は乞食僧のお通に対して馬鹿々々しき思いを運ぶを知りたれば、いよいよその阿房なることを確めぬ。
さりながら鏡を示されし時乞食僧は逃げ去りつつ人知れず左記の数言を呟《つぶや》きたり。
「予は自ら誓えり、世を終るまで鏡を見じと、然《しか》り断じて鏡を見まじ。否これを見ざるのみならず、今|思出《おもいいだ》したる鏡という品《もの》の名さえ、務めて忘れねばならぬなり。」
三
蝦蟇法師《がまほうし》がお通に意あるが如き素振《そぶり》を認めたる連中は、これをお通が召使の老媼《おうな》に語りて、且つ戯《たわぶ》れ、且つ戒めぬ。
毎夕|納涼台《すずみだい》に集る輩《やから》は、喋々《ちょうちょう》しく蝦蟇法師の噂《うわさ》をなして、何者にまれ乞食僧の昼間の住家を探り出だして、その来歴を発出《みいだ》さむ者には、賭物《かけもの》として金
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