もう/\》として我我《われわれ》を弁《べん》ぜず、所謂《いはゆる》無現《むげん》の境《きやう》にあり。時《とき》に予が寝《い》ねたる室《しつ》の襖《ふすま》の、スツとばかりに開く音せり。否《いな》唯《たゞ》音のしたりと思へるのみ、別に誰《た》そやと問ひもせず、はた起直《おきなほ》りて見むともせず、うつら/\となし居《を》れり。然《さ》るにまた畳を摺来《すりく》る跫音《あしおと》聞《きこ》えて、物あり、予が枕頭《ちんとう》に近寄る気勢《けはひ》す、はてなと思ふ内に引返《ひつかへ》せり。少時《しばらく》してまた来《きた》る、再び引返せり、三たびせり。
 此《こゝ》に於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》き、不図《ふと》一見《いつけん》して蒼《あを》くなりぬ。予は殆《ほとん》ど絶《ぜつ》せむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける裸体《らたい》の婦人《をんな》、あるが如《ごと》く無きが如き灯《ともしび》の蔭に朦朧《もうろう》と乳房のあたりほの見えて描ける如く彳《たゝず》めり。
 予は叫ばむとするに声|出《い》でず、蹶起《はねお》きて逃げむと急《あせ》るに、磐石一座《ばんじやくいちざ》夜着を圧して、身動きさへも得《え》ならねば、我あることを気取らるまじと、愚《おろか》や一縷《いちる》の鼻息《びそく》だもせず、心中に仏の御名《みな》を唱《とな》へながら、戦《わなゝ》く手足は夜着を煽《あふ》りて、波の如くに揺らめいたり。
 婦人は予を凝視《みつ》むるやらむ、一種の電気を身体《みうち》に感じて一際《ひときは》毛穴の弥立《よだ》てる時、彼は得もいはれぬ声を以《も》て「藪にて見しは此人《このひと》なり、テモ暖かに寝たる事よ」と呟《つぶや》けるが、まざ/\と聞《きこ》ゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は一竦《ひとすくみ》に縮みたり。
 斯《か》くて婦人が無体にも予が寝し衾《ふすま》をかゝげつゝ、衝《つ》と身を入るゝに絶叫して、護謨球《ごむだま》の如く飛上《とびあが》り、室《しつ》の外《おもて》に転出《まろびい》でて畢生《ひつせい》の力を籠《こ》め、艶魔《えんま》を封ずるかの如く、襖を圧《おさ》へて立ちけるまでは、自分《みずから》なせし業《わざ》とは思はず、祈念《きねん》を凝《こら》せる神仏《しんぶつ》がしかなさしめしを信ずるなり。
 寒さは寒し恐しさにがた/\震《ぶるひ》[#「がた/\震《ぶるひ》」は底本では「がた/\震 ぶるひ」]少しも止《や》まず、遂《つひ》に東雲《しのゝめ》まで立竦《たちすく》みつ、四辺《あたり》のしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸《ふしど》には藻脱《もぬけ》の殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜《そのよ》の感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。
 然《さ》らでも前日の竹藪以来、怖気《おぢけ》の附《つ》きたる我なるに、昨夜《さくや》の怪異に胆《きも》を消し、もはや斯塾《しじゆく》に堪《たま》らずなりぬ。其日の中《うち》に逃帰《にげかへ》らむかと已《すで》に心を決せしが、さりとては余り本意《ほい》無し、今夜《こよひ》一夜《ひとよ》辛抱《しんばう》して、もし再び昨夜《ゆうべ》の如く婦人の来《きた》ることもあらば度胸を据《す》ゑて其《そ》の容貌と其《その》姿態《したい》とを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交《かは》し試むべきなり。よしや執着の留《とゞま》りて怨《うらみ》を後世《こうせい》に訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人《なんぴと》も爾《しか》く英雄になるぞかし。逢魔《あふま》が時《とき》の薄暗がりより漸次《しだい》に元気衰へつ、夜《よ》に入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増《まさ》りぬ。漫《そゞろ》に昨夜《さくや》を憶起《おもひおこ》して、転《うた》た恐怖の念に堪《た》へず、斯くと知らば日の中《うち》に辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。
 只管《ひたすら》洋灯《ランプ》を明《あか》くする、これせめてもの附元気《つけげんき》、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯《ただ》一人《ひとり》更け行く鐘を数へつゝ「早《はや》一時か」と呟く時、陰々として響き来《きた》る、怨むが如き婦人の泣声、柱を回《めぐ》り襖を潜《くゞ》り、壁に浸入《しみい》る如くなり。
 南無三《なむさん》膝を立直《たてなほ》し、立ちもやらず坐りも果てで、魂《たましひ》宙に浮く処《ところ》に、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田《やまだ》山田」と我が名を呼ぶ、※[#「口+何」、第4水準2−3−88]呀《あなや》と頭《かうべ》を掉傾《ふりか
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