たむ》け、聞けば聞くほど判然と疑《うたがひ》も無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ堪《たま》らじ。

     六

 今はハヤ須臾《しゆゆ》の間《ま》も忍び難《がた》し、臆病者と笑はば笑へ、恥も外聞も要《い》らばこそ、予は慌《あわたゞ》しく書斎を出でて奥座敷の方《かた》に駈行《かけゆ》きぬ。蓋《けだ》し松川の臥戸《ふしど》に身を投じて、味方を得ばやと欲《おも》ひしなり。
 既《すで》にして、松川が閨《ねや》に到れば、こはそもいかに彼《か》の泣声《なきごゑ》は正《まさ》に此室《このま》の裡《うち》よりす、予は入《はひ》るにも入《はひ》られず愕然《がくぜん》として襖《ふすま》の外に戦《わなな》きながら突立《つツた》てり。
 然《しか》るに松川は未《いま》だ眠らでぞある。鬱《うつ》し怒《いか》れる音調|以《も》て、「愛想《あいそ》の尽《つ》きた獣《けだもの》だな、汝《おのれ》、苟《いやし》くも諸生を教へる松川の妹でありながら、十二にもなつて何の事だ、何《ど》うしたらまたそんなに学校が嫌《いや》なのだ。これまで幾度《いくたび》と数知れず根競《こんくらべ》と思つて意見をしても少しも料簡《れうけん》が直らない、道で遊んで居ては人眼に立つと思ふかして途方も無い学校へ行くてつちやあ家《うち》を出て、此頃《このごろ》は庭の竹藪に隠れて居る。此間《このあひだ》見着《みつ》けた時には、腹は立たないで涙が出たぞ」と切歯《はがみ》をなして憤《いきどほ》る。
 傍《かたはら》より老いたる婦人《をんな》の声として「これお長《ちやう》、母様《おつかさん》のいふ事も兄様《にいさん》のおつしやる事もお前は合点《がてん》が行《ゆ》かないかい、狂気《きちがひ》の様《やう》な娘を持つた私《わたし》や何《なん》といふ因果であらうね。其癖《そのくせ》、犬に吠えられた時、お弁当のお菜《さい》を遣《や》つて口塞《くちふさぎ》をした気転なんぞ、満更《まんざら》の馬鹿でも無いに」と愚痴《ぐち》を零《こぼ》す[#ルビの「こぼ(す)」は底本では「にぼ(す)」]は母親ならむ。
 松川は腹立たしげに「其《それ》が馬鹿智慧と謂ふもんだ、馬鹿に小才《こさい》のあるのはまるつきりの馬鹿よりなほ不可《いけな》い。彼《あ》の時藪の中から引摺出《ひきずりだ》して押入の中へ入れて置くと、死ぬ様な声を出して泣くもんだから――何時《いつ》だつけ、むゝ俺が誕生の晩だ――山田に何が泣いてるのだと問はれて冷汗を掻《か》いたぞ。貴様が法外な白痴《たはけ》だから己《おれ》に妹があると謂ふことは人に秘《かく》して居《を》る位《くらゐ》、山田の知らないのも道理《もつとも》だが、これ/\で意見をするとは恥かしくつて言はれもしない。それでも親の慈悲や兄の情《なさけ》で何《ど》うかして学校へも行《ゆ》く様に真人間にして遣《や》りたいと思へばこそ性懲《しやうこり》を附《つ》けよう為に、昨夜《ゆうべ》だつて左様《さう》だ、一晩裸にして夜着《よぎ》も被《き》せずに打棄《うつちや》つて置いたのだ。すると何うだ、己《おれ》にお謝罪《わび》をすれば未《まだ》しも可愛気《かはいげ》があるけれど、いくら寒いたつて余《あんま》りな、山田の寝床へ潜込《もぐりこ》みに行《い》きをつた。彼《あれ》が妖怪《ばけもの》と思違ひをして居るのも否《いや》とは謂はれぬ。妖怪より余程《よつぽど》怖い馬鹿だもの、今夜はもう意見をするんぢやあないから謝罪《わび》たつて承知はしない、撲殺《なぐりころ》すのだから左様思へ」と笞《しもと》の音ひうと鳴りて肉を鞭《むちう》つ響《ひゞき》せり。女《むすめ》はひい/\と泣きながら、「姉様|謝罪《おわび》をして頂戴よう、あいたゝ、姉様よう」と、哀《あはれ》なる声にて助《たすけ》を呼ぶ。
 今姉さんと呼ばれしは松川の細君なり。「これまで幾度謝罪をして進《あ》げましても、お前様の料簡が直らないから、もうもう何と謂つたつて御肯入《おきゝい》れなさらない、妾《わたし》が謂つたつて所詮《しよせん》駄目です、あゝ、余り酷《ひど》うございますよ。少し御手柔《おてやはらか》に遊ばせ、あれ/\それぢやあ真個《ほんと》に死んでしまひますわね、母様、もし旦那つてば、御二人で御折檻なさるから仕様《しやう》が無い、えゝ何《ど》うせうね、一寸《ちよつと》来て下《くだ》さい」と声震はし「山田さん、山田さん」我を呼びしは、さては是《これ》か。



底本:「日本の名随筆 別巻64 怪談」作品社
   1996(平成8)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十七卷」岩波書店
   1942(昭和17)年10月
※疑問点の確認、修正に当たっては、親本を参照しました。
入力:土屋隆
校正
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