妖怪年代記
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)松川《まつかは》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)金沢市|古寺町《ふるでらまち》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ほと/\と
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 予が寄宿生となりて松川《まつかは》私塾に入《い》りたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他《た》に密《ひそか》に期することのありけるなり。
 加州《かしう》金沢市|古寺町《ふるでらまち》に両隣《りやうどなり》無《な》き一宇《いちう》の大廈《たいか》は、松山|某《なにがし》が、英、漢、数学の塾舎となれり。旧《もと》は旗野《はたの》と謂《い》へりし千石取《せんごくどり》の館《やかた》にして、邸内に三件の不思議あり、血天井《ちてんじよう》、不開室《あかずのま》、庭の竹藪|是《これ》なり。
 事の原由《よし》を尋ぬるに、旗野の先住に、何某《なにがし》とかや謂《い》ひし武士《ものゝふ》のありけるが、過《あや》まてることありて改易となり、邸《やしき》を追はれて国境《くにざかひ》よりぞ放たれし。其《その》室《しつ》は当時|家中《かちう》に聞《きこ》えし美人なりしが、女心《をんなごころ》の思詰《おもひつ》めて一途に家を明渡すが口惜《くちをし》く、我《われ》は永世《えいせい》此処《このところ》に留《とゞ》まりて、外へは出《い》でじと、其《その》居間に閉籠《とぢこも》り、内より鎖《ぢやう》を下《おろ》せし後《のち》は、如何《いかに》かしけむ、影も形も見えずなりき。
 其後《そののち》旗野は此家《このや》に住《すま》ひつ。先住の室《しつ》が自ら其身《そのみ》を封じたる一室は、不開室と称《とな》へて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。
 然《さ》るからに執念の留まれるゆゑにや、常には然《さ》せる怪《くわい》無きも、後住《こうぢう》なる旗野の家に吉事《きつじ》ある毎《ごと》に、啾々《しう/\》たる婦人《をんな》の泣声《なきごゑ》、不開室の内に聞えて、不祥《ふしやう》ある時は、さも心地好《こゝちよ》げに笑ひしとかや。
 旗野に一人《いちにん》の妾《せふ》あり。名を村《むら》といひて寵愛|限無《かぎりな》かりき。一年《あるとし》夏の半《なかば》、驟雨後《ゆふだちあと》の月影|冴《さや》かに照《てら》して、北向《きたむき》の庭なる竹藪に名残《なごり》の雫《しづく》、白玉《しらたま》のそよ吹く風に溢《こぼ》るゝ風情《ふぜい》、またあるまじき観《ながめ》なりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更《よふく》るを覚えざりき。
 お村も少《すこ》しくなる[#「なる」に傍点]口なるに、其夜《そのよ》は心|爽《さわや》ぎ、興《きよう》も亦《また》深かりければ、飲過《のみすご》して太《いた》く酔《ゑ》ひぬ。人《ひと》静まりて月の色の物凄《ものすご》くなりける頃、漸《やうや》く盃《さかづき》を納めしが、臥戸《ふしど》に入《い》るに先立ちて、お村は厠《かはや》に上《のぼ》らむとて、腰元に扶《たす》けられて廊下伝ひに彼《かの》不開室の前を過ぎけるが、酔心地の胆《きも》太《ふと》く、ほと/\と板戸を敲《たゝ》き、「この執念深き奥方、何とて今宵《こよひ》に泣きたまはざる」と打笑《うちわら》ひけるほどこそあれ、生温《なまぬる》き風一陣吹出で、腰元の携《たづさ》へたる手燭《てしよく》を消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して僵《たふ》れ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ件《くだん》の部屋を覗けば、内には暗く行灯《あんどう》点《とも》りて、お村は脛《はぎ》も露《あらは》に横《よこた》はれる傍《かたはら》に、一人《いちにん》の男ありて正体も無く眠れるは、蓋《けだし》此家《このや》の用人なるが、先刻《さきに》酒席に一座して、酔過《ゑひすご》して寝《い》ねたるなれば、今お村が僵れ込みて、己《おの》が傍《かたへ》に気を失ひ枕をならべて伏したりとも、心着《こゝろづ》かざる状《さま》になむ。此《この》腰元は春《はる》といひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は寵《ちよう》を得てお部屋と成済《なりすま》し、常に頤《あご》以《も》て召使はるゝを口惜《くちをし》くてありけるにぞ、今|斯《か》く偶然に枕を並べたる二人《ににん》が態《すがた》を見るより、悪心むらむ
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