らと起《おこ》り、介抱もせず、呼びも活《い》けで、故《わざ》と灯火《ともしび》を微《ほのか》にし、「かくては誰《た》が眼にも……」と北叟笑《ほくそゑ》みつゝ、忍《しのび》やかに立出《たちい》で、主人《あるじ》の閨《ねや》に走行《はしりゆ》きて、酔臥《ゑひふ》したるを揺覚《ゆりさ》まし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ候《さふらふ》[#「候」は底本では「侯」]」と欺《あざむ》きければ、短慮無謀の平素《ひごろ》を、酒に弥暴《いやあら》く、怒気烈火の如《ごと》く心頭に発して、岸破《がば》と蹶起《はねお》き、枕刀《まくらがたな》押取《おつと》りて、一文字に馳出《はせい》で、障子を蹴放《けはな》して驀地《まつしぐら》に躍込《おどりこ》めば、人畜《にんちく》相戯《あひたはむ》れて形《かた》の如き不体裁。前後の分別に遑無《いとまな》く、用人の素頭《すかうべ》、抜手《ぬくて》も見せず、ころりと落《おと》しぬ。

     二

 旗野の主人《あるじ》は血刀《ちがたな》提《ひつさ》げ、「やをれ婦人《をんな》、疾《と》く覚めよ」とお村の肋《あばら》を蹴返《けかへ》せしが、活《くわつ》の法《はふ》にや合《かな》ひけむ、うむと一声《ひとこゑ》呼吸《いき》出《い》でて、あれと驚き起返《おきかへ》る。
 主人はハツタと睨附《ねめつ》け、「畜生よ、男は一刀に斬棄《きりす》てたれど、汝《おのれ》には未《ま》だ為《せ》むやうあり」と罵《のゝし》り狂ひ、呆《あき》れ惑ふお村の黒髪を把《と》りて、廊下を引摺《ひきず》り縁側に連行《つれゆ》きて、有無を謂はせず衣服を剥取《はぎと》り、腰に纏《まと》へる布ばかりを許して、手足を堅く縛《いまし》めけり。
 お村は夢の心地ながら、痛さ、苦しさ、恥《はづか》しさに、涙に咽《むせ》び、声を震はせ、「こは殿にはものに狂はせ給《たま》ふか、何故《なにゆゑ》ありての御折檻《ごせつかん》ぞ」と繰返しては聞《きこ》ゆれども、此方《こなた》は憤恚《いかり》に逆上して、お村の言《ことば》も耳にも入らず、無二無三に哮立《たけりた》ち、お春を召して酒を取寄せ、己《おの》が両手に滴《したゝ》らしては、お村の腹に塗り、背に塗り、全身余さず酒漬《さけびたし》にして、其まゝ庭に突出《つきい》だし、竹藪の中に投入れて、虫責《むしぜめ》にこそしたりけれ。
 深夜の出来事なりしかば、内の者ども皆眠りて知れるは絶えてあらざりき。「かまへて人に語るべからず。執成立《とりなしだて》せば面倒なり」と主人はお春を警《いまし》めぬ。お村が苦痛はいかばかりなりけむ、「あら苦し、堪難《たへがた》や、あれよ/\」と叫びたりしが、次第にものも得《え》謂はずなりて、夜も明方に到りては、唯《ただ》泣く声の聞えしのみ、されば家内の誰彼《たれかれ》は藪の中とは心着《こゝろづ》かで、彼《か》の不開室《あかずのま》の怪異とばかり想ひなし、且《かつ》恐れ且|怪《あやし》みながら、元来泣声ある時は、目出度《めでた》きことの兆候《きざし》なり、と言伝《いひつた》へたりければ、「いづれも吉兆に候《さふら》ひなむ」と主人を祝せしぞ愚《おろか》なりける。午前《ひる》少しく前のほど、用人の死骸を発見《みいだ》したる者ありて、上を下へとかへせしが、主人は少しも騒ぐ色なく、「手討《てうち》にしたり」とばかりにて、手続《てつゞき》を経てこと果てぬ。お村は昨夜《ゆうべ》の夜半より、藪の真中《まなか》に打込《うちこ》まれ、身動きだにもならざるに、酒の香《か》を慕《した》ひて寄来《よりく》る蚊《か》の群は謂ふも更《さら》なり、何十年を経たりけむ、天日《てんじつ》を蔽隠《おおひかく》して昼|猶《なほ》闇《くら》き大藪なれば、湿地に生ずる虫どもの、幾万とも知れず群《むらが》り出でて、手足に取着き、這懸《はいかゝ》り、顔とも謂はず、胸とも謂はず、むず/\と往来しつ、肌を嘗《な》められ、血を吸はるゝ苦痛は云ふべくもあらざれば、悶《もだ》え苦《くるし》み、泣き叫びて、死なれぬ業《ごふ》を歎《なげ》きけるが、漸次《しだい》に精《せい》尽《つ》き、根《こん》疲れて、気の遠くなり行くにぞ、渠《かれ》が最も忌嫌《いみきら》へる蛇《へび》の蜿蜒《のたる》も知らざりしは、せめてもの僥倖《げうかう》なり、されば玉《たま》の緒《を》の絶えしにあらねば、現《うつゝ》に号泣《がうきふ》する糸より細き婦人《をんな》の声は、終日《ひねもす》休《や》む間《ひま》なかりしとぞ。
 其日も暮れ、夜《よ》に入りて四辺《あたり》の静《しづか》になるにつれ、お村が悲喚《ひくわん》の声|冴《さ》えて眠り難《がた》きに、旗野の主人も堪兼《たまりか》ね、「あら煩悩《うるさ》し、いで息の根を止めむず」と藪の中に走入《はしりい》り、半死半生の婦人《をんな》を引出《ひ
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