きい》だせば、総身《そうしん》赤く腫《は》れたるに、紫斑々《しはん/\》の痕《あと》を印し、眼も中《あ》てられぬ惨状《ありさま》なり。
かくても未《いま》だ怒《いかり》は解けず、お村の後手《うしろで》に縛《くゝ》りたる縄の端《はし》を承塵《なげし》に潜《くぐ》らせ、天井より釣下《つりさ》げて、一太刀|斬附《きりつ》くれば、お村ははツと我に返りて、「殿、覚えておはせ、御身《おんみ》が命を取らむまで、妾《わらは》は死なじ」と謂はせも果てず、はたと首《かうべ》を討落《うちおと》せば、骸《むくろ》は中心を失ひて、真逆様《まつさかさま》になりけるにぞ、踵《かゝと》を天井に着けたりしが、血汐《ちしほ》は先刻《さきに》脛《はぎ》を伝ひて足の裏を染めたれば、其《そ》が天井に着くとともに、怨恨《うらみ》の血判《けつぱん》二つをぞ捺《お》したりける。此《この》一念の遺物《かたみ》拭《ぬぐ》ふに消えず、今に伝へて血天井と謂ふ。
人を殺すにも法こそあれ、旗野がお村を屠《ほふ》りし如きは、実に惨中の惨なるものなり。家に仕《つか》ふる者ども、其物音に駈附《かけつ》けしも、主人が血相に恐《おそれ》をなして、留《とゞ》めむとする者無く、遠巻《とほまき》にして打騒ぎしのみ。殺尽《ころしつく》せしお村の死骸は、竹藪の中に埋棄《うづみす》てて、跡弔《あととむらひ》もせざりけり。
三
はじめお村を讒《ざん》ししお春は、素知らぬ顔にもてなしつゝ此家《このや》に勤め続けたり。人には奇癖のあるものにて、此《この》婦人《をんな》太《いた》く蜘蛛《くも》を恐れ、蜘蛛といふ名を聞きてだに、絶叫するほどなりければ、況《ま》して其物《そのもの》を見る時は、顔の色さへ蒼《あを》ざめて死せるが如《ごと》くなりしとかや。
お村が虐殺《なぶりごろし》に遭ひしより、七々日《なゝなぬか》にあたる夜半《よは》なりき。お春は厠《かはや》に起出《おきい》でつ、帰《かへり》には寝惚《ねぼ》けたる眼の戸惑《とまど》ひして、彼《かの》血天井の部屋へ入《い》りにき。それと遽《にはか》に心着《こゝろづ》けば、天窓《あたま》より爪先まで氷を浴ぶる心地して、歯の根も合はず戦《わなゝ》きつゝ、不気味に堪《た》へぬ顔を擡《あ》げて、手燭《ぼんぼり》の影|幽《かすか》に血の足痕《あしあと》を仰見《あふぎみ》る時しも、天井より糸を引きて一疋《いつぴき》の蜘蛛|垂下《たれさが》り、お春の頬に取着《とりつ》くにぞ、あと叫びて立竦《たちすく》める、咽喉《のんど》を伝ひ胸に入り、腹より背《せな》に這廻《はひまは》れば、声をも得《え》立てず身を悶《もだ》え虚空《こくう》を掴《つか》みて苦《くるし》みしが、はたと僵《たふ》れて前後を失ひけり。夜更《よふけ》の事とて誰《たれ》も知らず、朝《あした》になりて見着《みつ》けたる、お春の身体《からだ》は冷たかりき、蜘蛛の這《は》へりし跡やらむ、縄にて縊《くび》りし如く青き条《すぢ》をぞ画《ゑが》きし。
眼前《まのあたり》お春が最期《さいご》を見てしより、旗野の神経|狂出《くるひだ》し、あらぬことのみ口走りて、一月余《ひとつきあまり》も悩みけるが、一夜《あるよ》月の明《あきら》かなりしに、外方《とのかた》に何やらむ姿ありて、旗野をおびき出《いだ》すが如く、主人《あるじ》は居室《ゐま》を迷出《まよひい》でて、漫《そゞ》ろに庭を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》ひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に躍蒐《をどりかゝ》りて、えいと殺《そ》ぎたる竹の切口《きりくち》、斜《なゝめ》に尖《とが》れる切先《きつさき》に転《まろ》べる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。仏家《ぶつけ》の因果は是《これ》ならむかし。
旗野の主人果てて後《のち》、代《よ》を襲《つ》ぐ子とても無かりければ、やがて其《その》家《いへ》は断絶《たえ》にけり。
数歳《すさい》の星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々《さま/″\》人の住替《すみかは》りしが、一月《ひとつき》居《ゐ》しは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。甚《はなは》だしきに到りては、一夜《ひとよ》を超えて引越せしもあり。松川|彼処《かしこ》に住《すま》ひてより、別に変《かは》りしこともなく、二月《ふたつき》余も落着《おちつ》けるは、いと珍しきことなりと、近隣《きんりん》の人は噂《うはさ》せり。さりながらはじめの内は十幾人《じふいくたり》の塾生ありて、教場《けうぢやう》太《いた》く賑ひしも、二人《ふたり》三人《みたり》と去りて、果《はて》は一人《いちにん》もあらずなりて、後《のち》にはたゞ昼《ひる》の間《うち》通学生の来るのみにて、塾生は我《われ》一人《いち
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