をして、活《い》きると思《おも》へば平氣《へいき》で可《よ》し、死《し》ぬと思《おも》や靜《しづか》に未來《みらい》を考《かんが》へて、念佛《ねんぶつ》の一《ひと》つも唱《とな》へたら何《ど》うぢや、何方《どつち》にした處《ところ》が、わい/\騷《さわ》ぐことはない。はて、見苦《みぐる》しいわい。
然《しか》し私《わし》も出家《しゆつけ》の身《み》で、人《ひと》に心配《しんぱい》を懸《か》けては濟《す》むまい。可《よ》し、可《よ》し。」
と渠《かれ》は獨《ひと》り頷《うなづ》きつゝ、從容《しようよう》として立上《たちあが》り、甲板《デツキ》の欄干《てすり》に凭《よ》りて、犇《ひしめ》き合《あ》へる乘客等《じようかくら》を顧《かへり》みて、
「いや、誰方《どなた》もお騷《さわ》ぎなさるな。もう斯《か》うなつちや神佛《かみほとけ》の信心《しんじん》では皆《みな》の衆《しう》に埒《らち》があきさうもないに依《よ》つて、唯《たゞ》私《わし》が居《ゐ》なければ大丈夫《だいぢやうぶ》だと、一生懸命《いつしやうけんめい》に信仰《しんかう》なさい、然《さ》うすれば屹度《きつと》助《たす》かる。宜《
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