りあひら》がいかに怒《いか》りしか、いかに罵《のゝし》りしかを、渠《かれ》は眠《ねむ》りて知《し》らざりしなり。
下
恁《かく》て、數時間《すうじかん》を經《へ》たりし後《のち》、身邊《あたり》の人聲《ひとごゑ》の騷《さわ》がしきに、旅僧《たびそう》は夢《ゆめ》破《やぶ》られて、唯《と》見《み》れば變《かは》り易《やす》き秋《あき》の空《そら》の、何時《いつ》しか一面《いちめん》掻曇《かきくも》りて、暗澹《あんたん》たる雲《くも》の形《かたち》の、凄《すさま》じき飛天夜叉《ひてんやしや》の如《ごと》きが縱横無盡《じうわうむじん》に馳《は》せ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《まは》るは、暴風雨《あらし》の軍《いくさ》を催《もよほ》すならむ、其《その》一團《いちだん》は早《はや》く既《すで》に沿岸《えんがん》の山《やま》の頂《いたゞき》に屯《たむろ》せり。
風《かぜ》一陣《ひとしきり》吹《ふ》き出《い》でて、船《ふね》の動搖《どうえう》良《やゝ》激《はげ》しくなりぬ。恁《かく》の如《ごと》き風雲《ふううん》は、加能丸《かのうまる》既往《きわう》の航海史上《かうかいしじやう》珍《めづら》しからぬ現象《げんしやう》なれども、(一人坊主《ひとりばうず》)の前兆《ぜんてう》に因《よ》りて臆測《おくそく》せる乘客《じやうかく》は、恁《かゝ》る現象《げんしやう》を以《もつ》て推《すゐ》すベき、風雨《ふうう》の程度《ていど》よりも、寧《むし》ろ幾十倍《いくじふばい》の恐《おそれ》を抱《いだ》きて、渠《かれ》さへあらずば無事《ぶじ》なるべきにと、各々《おの/\》我《わが》命《いのち》を惜《をし》む餘《あまり》に、其《その》死《し》を欲《ほつ》するに至《いた》るまで、怨恨《うらみ》骨髓《こつずゐ》に徹《てつ》して、此《こ》の法華僧《ほつけそう》を憎《にく》み合《あ》へり。
不幸《ふかう》の僧《そう》はつく/″\此《この》状《さま》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまは》し、慨然《がいぜん》として、
「あゝ、末世《まつせ》だ、情《なさけ》ない。皆《みんな》が皆《みんな》で、恁《か》う又《また》信仰《しんかう》の弱《よわ》いといふは何《ど》うしたものぢやな。此處《こゝ》で死《し》ぬものか、死《し》なないものか、自分《じぶん》で判斷《はんだん》をして、活《い》きると思《おも》へば平氣《へいき》で可《よ》し、死《し》ぬと思《おも》や靜《しづか》に未來《みらい》を考《かんが》へて、念佛《ねんぶつ》の一《ひと》つも唱《とな》へたら何《ど》うぢや、何方《どつち》にした處《ところ》が、わい/\騷《さわ》ぐことはない。はて、見苦《みぐる》しいわい。
然《しか》し私《わし》も出家《しゆつけ》の身《み》で、人《ひと》に心配《しんぱい》を懸《か》けては濟《す》むまい。可《よ》し、可《よ》し。」
と渠《かれ》は獨《ひと》り頷《うなづ》きつゝ、從容《しようよう》として立上《たちあが》り、甲板《デツキ》の欄干《てすり》に凭《よ》りて、犇《ひしめ》き合《あ》へる乘客等《じようかくら》を顧《かへり》みて、
「いや、誰方《どなた》もお騷《さわ》ぎなさるな。もう斯《か》うなつちや神佛《かみほとけ》の信心《しんじん》では皆《みな》の衆《しう》に埒《らち》があきさうもないに依《よ》つて、唯《たゞ》私《わし》が居《ゐ》なければ大丈夫《だいぢやうぶ》だと、一生懸命《いつしやうけんめい》に信仰《しんかう》なさい、然《さ》うすれば屹度《きつと》助《たす》かる。宜《よろ》しいか/\。南無《なむ》、」
と一聲《ひとこゑ》、高《たか》らかに題目《だいもく》を唱《とな》へも敢《あ》へず、法華僧《ほつけそう》は身《み》を躍《をど》らして海《うみ》に投《とう》ぜり。
「身投《みなげ》だ、助《たす》けろ。」
船長《せんちやう》の命《めい》の下《もと》に、水夫《すいふ》は一躍《いちやく》して難《なん》に赴《おもむ》き、辛《から》うじて法華僧《ほつけそう》を救《すく》ひ得《え》たり。
然《しか》りし後《のち》、此《こ》の(一人坊主《ひとりばうず》)は、前《さき》とは正反對《せいはんたい》の位置《ゐち》に立《た》ちて、乘合《のりあひ》をして却《かへ》りて我《われ》あるがために船《ふね》の安全《あんぜん》なるを確《たしか》めしめぬ。
如何《いかん》となれば、乘客等《じようかくら》は爾《しか》く身《み》を殺《ころ》して仁《じん》を爲《な》さむとせし、此《この》大聖人《だいせいじん》の徳《とく》の宏大《くわうだい》なる、天《てん》は其《そ》の報酬《はうしう》として渠《かれ》に水難《すゐなん》を與《あた》ふべき理由《いはれ》のあらざるを斷《だん》じ、恁《かゝ》る聖
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