旅僧
泉鏡花

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)去《い》にし年《とし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|人《にん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]《まは》る

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)まづ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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        上

 去《い》にし年《とし》秋《あき》のはじめ、汽船《きせん》加能丸《かのうまる》の百餘《ひやくよ》の乘客《じようかく》を搭載《たふさい》して、加州《かしう》金石《かないは》に向《むか》ひて、越前《ゑちぜん》敦賀港《つるがかう》を發《はつ》するや、一天《いつてん》麗朗《うらゝか》に微風《びふう》船首《せんしゆ》を撫《な》でて、海路《かいろ》の平穩《へいをん》を極《きは》めたるにも關《かゝ》はらず、乘客《じようかく》の面上《めんじやう》に一片《いつぺん》暗愁《あんしう》の雲《くも》は懸《かゝ》れり。
 蓋《けだ》し薄弱《はくじやく》なる人間《にんげん》は、如何《いか》なる場合《ばあひ》にも多《おほ》くは己《おのれ》を恃《たの》む能《あた》はざるものなるが、其《そ》の最《もつと》も不安心《ふあんしん》と感《かん》ずるは海上《かいじやう》ならむ。
 然《さ》れば平日《ひごろ》然《さ》までに臆病《おくびやう》ならざる輩《はい》も、船出《ふなで》の際《さい》は兎《と》や角《かく》と縁起《えんぎ》を祝《いは》ひ、御幣《ごへい》を擔《かつ》ぐも多《おほ》かり。「一人女《ひとりをんな》」「一人坊主《ひとりばうず》」は、暴風《あれ》か、火災《くわさい》か、難破《なんぱ》か、いづれにもせよ危險《きけん》ありて、船《ふね》を襲《おそ》ふの兆《てう》なりと言傳《いひつた》へて、船頭《せんどう》は太《いた》く之《これ》を忌《い》めり。其日《そのひ》の加能丸《かのうまる》は偶然《ぐうぜん》一|人《にん》の旅僧《たびそう》を乘《の》せたり。乘客《じようかく》の暗愁《あんしう》とは他《た》なし、此《こ》の不祥《ふしやう》を氣遣《きづか》ふにぞありける。
 旅僧《たびそう》は年紀《とし》四十二三、全身《ぜんしん》黒《くろ》く痩《や》せて、鼻《はな》隆《たか》く、眉《まゆ》濃《こ》く、耳許《みゝもと》より頤《おとがひ》、頤《おとがひ》より鼻《はな》の下《した》まで、短《みじか》き髭《ひげ》は斑《まだら》に生《お》ひたり。懸《か》けたる袈裟《けさ》の色《いろ》は褪《あ》せて、法衣《ころも》の袖《そで》も破《やぶ》れたるが、服裝《いでたち》を見《み》れば法華宗《ほつけしう》なり。甲板《デツキ》の片隅《かたすみ》に寂寞《じやくまく》として、死灰《しくわい》の如《ごと》く趺坐《ふざ》せり。
 加越地方《かゑつちはう》は殊《こと》に門徒眞宗《もんとしんしう》、歸依者《きえしや》多《おほ》ければ、船中《せんちう》の客《きやく》も又《また》門徒《もんと》七八|分《ぶ》を占《し》めたるにぞ、然《さ》らぬだに忌《いま》はしき此《こ》の「一人坊主《ひとりばうず》」の、別《わ》けて氷炭《ひようたん》相容《あひい》れざる宗敵《しうてき》なりと思《おも》ふより、乞食《こつじき》の如《ごと》き法華僧《ほつけそう》は、恰《あたか》も加能丸《かのうまる》の滅亡《めつばう》を宣告《せんこく》せむとて、惡魔《あくま》の遣《つか》はしたる使者《ししや》としも見《み》えたりけむ、乘客等《じようかくら》は二|人《にん》三|人《にん》、彼方《あなた》此方《こなた》に額《ひたひ》を鳩《あつ》めて呶々《どゞ》しつゝ、時々《とき/″\》法華僧《ほつけそう》を流眄《しりめ》に懸《か》けたり。
 旅僧《たびそう》は冷々然《れい/\ぜん》として、聞《きこ》えよがしに風説《うはさ》して惡樣《あしざま》に罵《のゝし》る聲《こゑ》を耳《みゝ》にも入《い》れざりき。
 せめては四邊《あたり》に心《こゝろ》を置《お》きて、肩身《かたみ》を狹《せま》くすくみ居《ゐ》たらば、聊《いさゝ》か恕《じよ》する方《はう》もあらむ、遠慮《ゑんりよ》もなく席《せき》を占《し》めて、落着《おちつ》き澄《すま》したるが憎《にく》しとて、乘客《じようかく》の一|人《にん》は衝《つ》と其《そ》の前《まへ》に進《すゝ》みて、
「御出家《ごしゆつけ》、今日《けふ》の御天氣《おてんき》は如何《いかゞ》でせうな。」
 旅僧《たびそう》は半眼《はんがん》に閉《ふさ》ぎたる眼《め》を開《ひら》きて、
「さればさ、先刻《さつき》から降《ふ》らぬから、お天氣《てん
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