わるいのだから、落着《おちつ》いて、ね、気をしづめるのだよ、可《い》いかい。」
われはさからはで、ただ眼《め》をもて答へぬ。
「どれ。」といひて立つたる折、のしのしと道芝《みちしば》を踏む音して、つづれをまとうたる老夫《おやじ》の、顔の色いと赤きが縁《えん》近《ちこ》う入《はい》り来つ。
「はい、これはお児《こ》さまがござらつせえたの、可愛《かわい》いお児じや、お前様も嬉《うれ》しかろ。ははは、どりや、またいつものを頂きましよか。」
腰をななめにうつむきて、ひつたりとかの筧《かけい》に顔をあて、口をおしつけてごつごつごつとたてつづけにのみたるが、ふツといきを吹きて空を仰《あお》ぎぬ。
「やれやれ甘いことかな。はい、参ります。」
と踵《くびす》を返すを、こなたより呼びたまひぬ。
「ぢいや、御苦労だが。また来ておくれ、この児《こ》を返さねばならぬから。」
「あいあい。」
と答へて去る。山風《やまかぜ》颯《さつ》とおろして、彼《か》の白き鳥また翔《た》ちおりつ。黒き盥《たらい》のふちに乗りて羽《は》づくろひして静まりぬ。
「もう、風邪を引かないやうに寝させてあげよう、どれそんなら私も。」とて静《しずか》に雨戸をひきたまひき。
九《ここの》ツ谺《こだま》
やがて添臥《そいぶし》したまひし、さきに水を浴びたまひし故《ゆえ》にや、わが膚《はだ》をりをり慄然《りつぜん》たりしが何の心もなうひしと取縋《とりすが》りまゐらせぬ。あとをあとをといふに、をさな物語|二《ふた》ツ三《み》ツ聞かせ給《たま》ひつ。やがて、
「一《ひと》ツ谺《こだま》、坊や、二《ふた》ツ谺《こだま》といへるかい。」
「二ツ谺。」
「三《み》ツ谺《こだま》、四《よ》ツ谺《こだま》といつて御覧。」
「四ツ谺。」
「五《いつ》ツ谺《こだま》。そのあとは。」
「六《む》ツ谺《こだま》。」
「さうさう七《なな》ツ谺《こだま》。」
「八《や》ツ谺《こだま》。」
「九《ここの》ツ谺《こだま》――ここはね、九《ここの》ツ谺《こだま》といふ処《ところ》なの。さあもうおとなにして寝るんです。」
背に手をかけ引寄《ひきよ》せて、玉《たま》の如きその乳房《ちぶさ》をふくませたまひぬ。露《あらわ》に白き襟《えり》、肩のあたり鬢《びん》のおくれ毛はらはらとぞみだれたる、かかるさまは、わが姉上とは太《いた》く違へり。乳《ちち》をのまむといふを姉上は許したまはず。
ふところをかいさぐれば常に叱《しか》りたまふなり。母上みまかりたまひてよりこのかた三年《みとせ》を経《へ》つ。乳《ち》の味は忘れざりしかど、いまふくめられたるはそれには似ざりき。垂玉《すいぎよく》の乳房《ちぶさ》ただ淡雪《あわゆき》の如く含むと舌にきえて触るるものなく、すずしき唾《つば》のみぞあふれいでたる。
軽く背《せな》をさすられて、われ現《うつつ》になる時、屋《や》の棟《むね》、天井の上と覚《おぼ》し、凄《すさ》まじき音してしばらくは鳴りも止《や》まず。ここにつむじ風吹くと柱《はしら》動く恐しさに、わななき取《とり》つくを抱《だ》きしめつつ、
「あれ、お客があるんだから、もう今夜は堪忍《かんにん》しておくれよ、いけません。」
とキとのたまへば、やがてぞ静まりける。
「恐《こわ》くはないよ。鼠《ねずみ》だもの。」
とある、さりげなきも、われはなほその響《ひびき》のうちにものの叫びたる声せしが耳に残りてふるへたり。
うつくしき人はなかばのりいでたまひて、とある蒔絵《まきえ》ものの手箱のなかより、一口《ひとふり》の守刀《まもりがたな》を取出《とりだ》しつつ鞘《さや》ながら引《ひき》そばめ、雄々《おお》しき声にて、
「何が来てももう恐くはない。安心してお寝よ。」とのたまふ、たのもしき状《さま》よと思ひてひたとその胸にわが顔をつけたるが、ふと眼をさましぬ。残燈《ありあけ》暗く床柱《とこばしら》の黒うつややかにひかるあたり薄き紫の色《いろ》籠《こ》めて、香《こう》の薫《かおり》残りたり。枕をはづして顔をあげつ。顔に顔をもたせてゆるく閉《とじ》たまひたる眼《め》の睫毛《まつげ》かぞふるばかり、すやすやと寝入りてゐたまひぬ。ものいはむとおもふ心おくれて、しばし瞻《みまも》りしが、淋《さび》しさにたへねばひそかにその唇に指さきをふれて見ぬ。指はそれて唇には届かでなむ、あまりよくねむりたまへり。鼻をやつままむ眼をやおさむとまたつくづくと打《うち》まもりぬ。ふとその鼻頭《はなさき》をねらひて手をふれしに空《くう》を捻《ひね》りて、うつくしき人は雛《ひな》の如く顔の筋《すじ》ひとつゆるみもせざりき。またその眼のふちをおしたれど水晶のなかなるものの形を取らむとするやう、わが顔はそのおくれげのはしに頬をなでらるるまで近々《ちかぢか》とありながら、いかにしても指さきはその顔に届かざるに、はては心いれて、乳《ち》の下に面《おもて》をふせて、強く額《ひたい》もて圧《お》したるに、顔にはただあたたかき霞《かすみ》のまとふとばかり、のどかにふはふはとさはりしが、薄葉《うすよう》一重《ひとえ》の支《ささ》ふるなく着けたる額《ひたい》はつと下に落ち沈むを、心着《こころづ》けば、うつくしき人の胸は、もとの如く傍《かたわら》にあをむきゐて、わが鼻は、いたづらにおのが膚《はだ》にぬくまりたる、柔《やわらか》き蒲団《ふとん》に埋《うも》れて、をかし。
渡船《わたしぶね》
夢幻《ゆめまぼろし》ともわかぬに、心をしづめ、眼をさだめて見たる、片手はわれに枕させたまひし元のまま柔《やわら》かに力なげに蒲団《ふとん》のうへに垂れたまへり。
片手をば胸にあてて、いと白くたをやかなる五指《ごし》をひらきて黄金《おうごん》の目貫《めぬき》キラキラとうつくしき鞘《さや》の塗《ぬり》の輝きたる小さき守刀《まもりがたな》をしかと持つともなく乳《ち》のあたりに落して据《す》ゑたる、鼻たかき顔のあをむきたる、唇のものいふ如き、閉ぢたる眼《め》のほほ笑む如き、髪のさらさらしたる、枕にみだれかかりたる、それも違《たが》はぬに、胸に剣《つるぎ》をさへのせたまひたれば、亡《な》き母上のその時のさまに紛《まが》ふべくも見えずなむ、コハこの君《きみ》もみまかりしよとおもふいまはしさに、はや取除《とりの》けなむと、胸なるその守刀《まもりがたな》に手をかけて、つと引く、せつぱゆるみて、青き光|眼《まなこ》を射《い》たるほどこそあれ、いかなるはずみにか血汐《ちしお》さとほとばしりぬ。眼もくれたり。したしたとながれにじむをあなやと両の拳《こぶし》もてしかとおさへたれど、留《とど》まらで、たふたふと音するばかりぞ淋漓《りんり》としてながれつたへる、血汐《ちしお》のくれなゐ衣《きぬ》をそめつ。うつくしき人は寂《せき》として石像の如く静《しずか》なる鳩尾《みずおち》のしたよりしてやがて半身をひたし尽《つく》しぬ。おさへたるわが手には血の色つかぬに、燈《ともしび》にすかす指のなかの紅《くれない》なるは、人の血の染《そ》みたる色にはあらず、訝《いぶか》しく撫《な》で試《こころ》むる掌《たなそこ》のその血汐にはぬれもこそせね、こころづきて見定むれば、かいやりし夜のものあらはになりて、すずしの絹をすきて見ゆるその膚《はだ》にまとひたまひし紅《くれない》の色なりける。いまはわれにもあらで声高《こわだか》に、母上、母上と呼びたれど、叫びたれど、ゆり動かし、おしうごかししたりしが、効《かい》なくてなむ、ひた泣きに泣く泣くいつのまにか寝たりと覚《おぼ》し。顔あたたかに胸をおさるる心地《ここち》に眼覚めぬ。空青く晴れて日影まばゆく、木も草もてらてらと暑きほどなり。
われはハヤゆうべ見し顔のあかき老夫《おじ》の背《せな》に負はれて、とある山路《やまじ》を行《ゆ》くなりけり。うしろよりは彼《か》のうつくしき人したがひ来ましぬ。
さてはあつらへたまひし如く家に送りたまふならむと推《おし》はかるのみ、わが胸の中《うち》はすべて見すかすばかり知りたまふやうなれば、わかれの惜《お》しきも、ことのいぶかしきも、取出《とりい》でていはむは益《やく》なし。教ふべきことならむには、彼方《かなた》より先んじてうちいでこそしたまふべけれ。
家に帰るべきわが運《うん》ならば、強ひて止《とど》まらむと乞《こ》ひたりとて何かせん、さるべきいはれあればこそ、と大人《おとな》しう、ものもいはでぞ行《ゆ》く。
断崖の左右に聳《そび》えて、点滴《てんてき》声《こえ》する処《ところ》ありき。雑草《ざつそう》高き径《こみち》ありき。松柏《まつかしわ》のなかを行《ゆ》く処《ところ》もありき。きき知らぬ鳥うたへり。褐色なる獣《けもの》ありて、をりをり叢《くさむら》に躍《おど》り入りたり。ふみわくる道とにもあらざりしかど、去年《こぞ》の落葉《おちば》道を埋《うず》みて、人多く通《かよ》ふ所としも見えざりき。
をぢは一挺《いつちよう》の斧《おの》を腰にしたり。れいによりてのしのしとあゆみながら、茨《いばら》など生《お》ひしげりて、衣《きぬ》の袖《そで》をさへぎるにあへば、すかすかと切つて払ひて、うつくしき人を通し参らす。されば山路のなやみなく、高き塗下駄《ぬりげた》の見えがくれに長き裾《すそ》さばきながら来たまひつ。
かくて大沼《おおぬま》の岸に臨みたり。水は漫々として藍《らん》を湛《たた》へ、まばゆき日のかげも此処《ここ》の森にはささで、水面をわたる風寒く、颯々《さつさつ》として声あり。をぢはここに来てソとわれをおろしつ。はしり寄れば手を取りて立ちながら肩を抱《いだ》きたまふ、衣《きぬ》の袖《そで》左右より長くわが肩にかかりぬ。
蘆間《あしま》の小舟《おぶね》の纜《ともづな》を解きて、老夫《おじ》はわれをかかへて乗せたり。一緒《いつしよ》ならではと、しばしむづかりたれど、めまひのすればとて乗りたまはず、さらばとのたまふはしに棹《さお》を立てぬ。船は出《い》でつ。わツと泣きて立上《たちあが》りしがよろめきてしりゐに倒れぬ。舟といふものにははじめて乗りたり。水を切るごとに眼くるめくや、背後《うしろ》にゐたまへりとおもふ人の大《おおい》なる環《わ》にまはりて前途《ゆくて》なる汀《みぎわ》にゐたまひき。いかにして渡し越したまひつらむと思ふときハヤ左手《ゆんで》なる汀《みぎわ》に見えき。見る見る右手《めて》なる汀《みぎわ》にまはりて、やがて旧《もと》のうしろに立ちたまひつ。箕《み》の形したる大《おおい》なる沼は、汀《みぎわ》の蘆《あし》と、松の木と、建札《たてふだ》と、その傍《かたわら》なるうつくしき人ともろともに緩《ゆる》き環《わ》を描いて廻転し、はじめは徐《おもむ》ろにまはりしが、あとあと急になり、疾《はや》くなりつ、くるくるくると次第にこまかくまはるまはる、わが顔と一尺ばかりへだたりたる、まぢかき処《ところ》に松の木にすがりて見えたまへる、とばかりありて眼の前《さき》にうつくしき顔の※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけたるが莞爾《につこ》とあでやかに笑《え》みたまひしが、そののちは見えざりき。蘆は繁《しげ》く丈《たけ》よりも高き汀《みぎわ》に、船はとんとつきあたりぬ。
ふるさと
をぢはわれを扶《たす》けて船より出《い》だしつ。またその背《せな》を向けたり。
「泣くでねえ泣くでねえ。もうぢきに坊ツさまの家《うち》ぢや。」と慰めぬ。かなしさはそれにはあらねど、いふもかひなくてただ泣きたりしが、しだいに身のつかれを感じて、手も足も綿の如くうちかけらるるやう肩に負はれて、顔を垂れてぞともなはれし。見覚えある板塀《いたべい》のあたりに来て、日のややくれかかる時、老夫《おじ》はわれを抱《いだ》き下《おろ》して、溝のふちに立たせ、ほくほく打《うち》ゑみつゝ、慇懃《いんぎん》に会釈《えしやく》したり。
「おとなにしさつしやりませ。はい。」
といひずてに何地《いずち》ゆくらむ。別れはそ
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