ざ》す音しつ、闃《げき》としてものも聞えずなりぬ。
 親しき友にはあらず。常にうとましき児どもなれば、かかる機会《おり》を得てわれをば苦めむとや企《たく》みけむ。身を隠したるまま密《ひそか》に遁《に》げ去りたらむには、探せばとて獲《え》らるべき。益《やく》もなきことをとふと思ひうかぶに、うちすてて踵《くびす》をかへしつ。さるにても万一《もし》わがみいだすを待ちてあらばいつまでも出《い》でくることを得ざるべし、それもまたはかりがたしと、心《こころ》迷《まよ》ひて、とつ、おいつ、徒《いたずら》に立ちて困《こう》ずる折しも、何処《いずく》より来《きた》りしとも見えず、暗うなりたる境内の、うつくしく掃《は》いたる土のひろびろと灰色なせるに際立《きわだ》ちて、顔の色白く、うつくしき人、いつかわが傍《かたわら》にゐて、うつむきざまにわれをば見き。
 極めて丈高《たけたか》き女なりし、その手を懐《ふところ》にして肩を垂れたり。優《やさ》しきこゑにて、
「こちらへおいで。こちら。」
 といひて前《さき》に立ちて導きたり。見知りたる女《ひと》にあらねど、うつくしき顔の笑《えみ》をば含みたる、よき人と思ひたれば、怪《あや》しまで、隠れたる児《こ》のありかを教ふるとさとりたれば、いそいそと従ひぬ。

     あふ魔《ま》が時《とき》

 わが思ふ処《ところ》に違《たが》はず、堂の前を左にめぐりて少しゆきたる突《つき》あたりに小さき稲荷《いなり》の社《やしろ》あり。青き旗、白き旗、二、三本その前に立ちて、うしろはただちに山の裾《すそ》なる雑樹《ぞうき》斜めに生《お》ひて、社の上を蔽《おお》ひたる、その下のをぐらき処《ところ》、孔《あな》の如き空地《くうち》なるをソとめくばせしき。瞳《ひとみ》は水のしたたるばかり斜《ななめ》にわが顔を見て動けるほどに、あきらかにその心ぞ読まれたる。
 さればいささかもためらはで、つかつかと社《やしろ》の裏をのぞき込む、鼻うつばかり冷たき風あり。落葉、朽葉《くちば》堆《うずたか》く水くさき土のにほひしたるのみ、人の気勢《けはい》もせで、頸《えり》もとの冷《ひやや》かなるに、と胸をつきて見返りたる、またたくまと思ふ彼《か》の女《ひと》はハヤ見えざりき。何方《いずかた》にか去りけむ、暗くなりたり。
 身の毛よだちて、思はず※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と叫びぬ。
 人顔《ひとがお》のさだかならぬ時、暗き隅《すみ》に行《ゆ》くべからず、たそがれの片隅には、怪しきものゐて人を惑《まど》はすと、姉上の教へしことあり。
 われは茫然《ぼうぜん》として眼《まなこ》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》りぬ。足ふるひたれば動きもならず、固くなりて立ちすくみたる、左手《ゆんで》に坂あり。穴の如く、その底よりは風の吹き出《い》づると思ふ黒《こく》闇々《あんあん》たる坂下より、ものののぼるやうなれば、ここにあらば捕へられむと恐しく、とかうの思慮もなさで社《やしろ》の裏の狭きなかににげ入りつ。眼を塞《ふさ》ぎ、呼吸《いき》をころしてひそみたるに、四足《よつあし》のものの歩むけはひして、社の前を横ぎりたり。
 われは人心地《ひとごこち》もあらで見られじとのみひたすら手足を縮めつ。さるにてもさきの女《ひと》のうつくしかりし顔、優《やさし》かりし眼を忘れず。ここをわれに教へしを、今にして思へばかくれたる児《こ》どものありかにあらで、何らか恐しきもののわれを捕へむとするを、ここに潜《ひそ》め、助かるべしとて、導きしにはあらずやなど、はかなきことを考へぬ。しばらくして小提灯《こぢようちん》の火影《ほかげ》あかきが坂下より急ぎのぼりて彼方《かなた》に走るを見つ。ほどなく引返《ひつかえ》してわがひそみたる社《やしろ》の前に近づきし時は、一人ならず二人三人《ふたりみたり》連立《つれだ》ちて来《きた》りし感あり。
 あたかもその立留《たちどま》りし折から、別なる跫音《あしおと》、また坂をのぼりてさきのものと落合《おちあ》ひたり。
「おいおい分らないか。」
「ふしぎだな、なんでもこの辺で見たといふものがあるんだが。」
 とあとよりいひたるはわが家《いえ》につかひたる下男の声に似たるに、あはや出《い》でむとせしが、恐しきものの然《さ》はたばかりて、おびき出《いだ》すにやあらむと恐しさは一《ひと》しほ増しぬ。
「もう一度念のためだ、田圃《たんぼ》の方でも廻つて見よう、お前も頼む。」
「それでは。」といひて上下《うえした》にばらばらと分れて行《ゆ》く。
 再び寂《せき》としたれば、ソと身うごきして、足をのべ、板めに手をかけて眼ばかりと思ふ顔少し差出《さしい》だして、外《と》の方《かた》をうかがふに、何ごともあらざりければ、やや落着《おちつ》きたり。怪《あや》しきものども、何とてやはわれをみいだし得む、愚《おろか》なる、と冷《ひやや》かに笑ひしに、思ひがけず、誰《たれ》ならむたまぎる声して、あわてふためき遁《に》ぐるがありき。驚きてまたひそみぬ。
「ちさとや、ちさとや。」と坂下あたり、かなしげにわれを呼ぶは、姉上の声なりき。

     大沼《おおぬま》

「ゐないツて私《わたし》あどうしよう、爺《じい》や。」
「根ツからゐさつしやらぬことはござりますまいが、日は暮れまする。何せい、御心配なこんでござります。お前様《まえさま》遊びに出します時、帯の結《むすび》めを丁《とん》とたたいてやらつしやれば好《よ》いに。」
「ああ、いつもはさうして出してやるのだけれど、けふはお前私にかくれてそツと出て行つたろうではないかねえ。」
「それはハヤ不念《ぶねん》なこんだ。帯の結《むすび》めさへ叩《たた》いときや、何がそれで姉様なり、母様《おふくろさま》なりの魂《たましい》が入るもんだで魔《エテ》めはどうすることもしえないでごす。」
「さうねえ。」とものかなしげに語らひつつ、社《やしろ》の前をよこぎりたまへり。
 走りいでしが、あまりおそかりき。
 いかなればわれ姉上をまで怪《あやし》みたる。
 悔《く》ゆれど及ばず、かなたなる境内《けいだい》の鳥居のあたりまで追ひかけたれど、早やその姿は見えざりき。
 涙ぐみて彳《たたず》む時、ふと見る銀杏《いちよう》の木のくらき夜の空に、大《おおい》なる円《まる》き影して茂れる下に、女の後姿《うしろすがた》ありてわが眼《まなこ》を遮《さえぎ》りたり。
 あまりよく似たれば、姉上と呼ばむとせしが、よしなきものに声かけて、なまじひにわが此処《ここ》にあるを知られむは、拙《つたな》きわざなればと思ひてやみぬ。
 とばかりありて、その姿またかくれ去りつ。見えずなればなほなつかしく、たとへ恐しきものなればとて、かりにもわが優《やさ》しき姉上の姿に化《け》したる上は、われを捕へてむごからむや。さきなるはさもなくて、いま幻に見えたるがまことその人なりけむもわかざるを、何とて言《ことば》はかけざりしと、打泣《うちな》きしが、かひもあらず。
 あはれさまざまのものの怪《あや》しきは、すべてわが眼《まなこ》のいかにかせし作用なるべし、さらずば涙にくもりしや、術《すべ》こそありけれ、かなたなる御手洗《みたらし》にて清めてみばやと寄りぬ。
 煤《すす》けたる行燈《あんどう》の横長きが一つ上にかかりて、ほととぎすの画《え》と句など書いたり。灯《ひ》をともしたるに、水はよく澄《す》みて、青き苔《こけ》むしたる石鉢《いしばち》の底もあきらかなり。手に掬《むす》ばむとしてうつむく時、思ひかけず見たるわが顔はそもそもいかなるものぞ。覚えず叫びしが心を籠《こ》めて、気を鎮《しず》めて、両の眼《まなこ》を拭《ぬぐ》ひ拭ひ、水に臨《のぞ》む。
 われにもあらでまたとは見るに忍びぬを、いかでわれかかるべき、必ず心の迷へるならむ、今こそ、今こそとわななきながら見直したる、肩をとらへて声ふるはし、
「お、お、千里《ちさと》。ええも、お前は。」と姉上ののたまふに、縋《すが》りつかまくみかへりたる、わが顔を見たまひしが、
「あれ!」
 といひて一足すさりて、
「違つてたよ、坊や。」とのみいひずてに衝《つ》と馳《は》せ去りたまへり。
 怪《あや》しき神のさまざまのことしてなぶるわと、あまりのことに腹立たしく、あしずりして泣きに泣きつつ、ひたばしりに追いかけぬ。捕へて何をかなさむとせし、そはわれ知らず。ひたすらものの口惜《くちお》しければ、とにかくもならばとてなむ。
 坂もおりたり、のぼりたり、大路《おおみち》と覚しき町にも出《い》でたり、暗き径《こみち》も辿《たど》りたり、野もよこぎりぬ。畦《あぜ》も越えぬ。あとをも見ずて駈けたりし。
 道いかばかりなりけむ、漫々たる水面やみのなかに銀河の如く横《よこた》はりて、黒き、恐しき森四方をかこめる、大沼《おおぬま》とも覚しきが、前途《ゆくて》を塞《ふさ》ぐと覚ゆる蘆《あし》の葉の繁きがなかにわが身体《からだ》倒れたる、あとは知らず。

     五位鷺《ごいさぎ》

 眼のふち清々《すがすが》しく、涼しき薫《かおり》つよく薫ると心着《こころづ》く、身は柔《やわら》かき蒲団《ふとん》の上に臥したり。やや枕をもたげて見る、竹縁《ちくえん》の障子《しようじ》あけ放《はな》して、庭つづきに向ひなる山懐《やまふところ》に、緑の草の、ぬれ色青く生茂《おいしげ》りつ。その半腹《はんぷく》にかかりある厳角《いわかど》の苔《こけ》のなめらかなるに、一挺《いつちよう》はだか蝋《ろう》に灯《ひ》ともしたる灯影《ほかげ》すずしく、筧《かけい》の水むくむくと湧《わ》きて玉《たま》ちるあたりに盥《たらい》を据ゑて、うつくしく髪《かみ》結《ゆ》うたる女《ひと》の、身に一糸もかけで、むかうざまにひたりてゐたり。
 筧《かけい》の水はそのたらひに落ちて、溢《あふ》れにあふれて、地の窪《くぼ》みに流るる音しつ。
 蝋《ろう》の灯《ひ》は吹くとなき山おろしにあかくなり、くらうなりて、ちらちらと眼に映ずる雪なす膚《はだえ》白かりき。
 わが寝返《ねがえ》る音に、ふとこなたを見返り、それと頷《うなず》く状《さま》にて、片手をふちにかけつつ片足を立てて盥《たらい》のそとにいだせる時、颯《さ》と音して、烏《からす》よりは小さき鳥の真白《ましろ》きがひらひらと舞ひおりて、うつくしき人の脛《はぎ》のあたりをかすめつ。そのままおそれげもなう翼を休めたるに、ざぶりと水をあびせざま莞爾《につこ》とあでやかに笑うてたちぬ。手早く衣《きぬ》もてその胸をば蔽《おお》へり。鳥はおどろきてはたはたと飛去《とびさ》りぬ。
 夜の色は極めてくらし、蝋《ろう》を取りたるうつくしき人の姿さやかに、庭下駄《にわげた》重く引く音しつ。ゆるやかに縁《えん》の端に腰をおろすとともに、手をつきそらして捩向《ねじむ》きざま、わがかほをば見つ。
「気分は癒《なお》つたかい、坊や。」
 といひて頭《こうべ》を傾けぬ。ちかまさりせる面《おもて》けだかく、眉あざやかに、瞳《ひとみ》すずしく、鼻やや高く、唇の紅《くれない》なる、額《ひたい》つき頬のあたり※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけたり。こは予《かね》てわがよしと思ひ詰《つめ》たる雛《ひな》のおもかげによく似たれば貴《とうと》き人ぞと見き。年は姉上よりたけたまへり。知人《しりびと》にはあらざれど、はじめて逢ひし方《かた》とは思はず、さりや、誰《たれ》にかあるらむとつくづくみまもりぬ。
 またほほゑみたまひて、
「お前あれは斑猫《はんみよう》といつて大変な毒虫なの。もう可《い》いね、まるでかはつたやうにうつくしくなつた、あれでは姉様《ねえさん》が見違へるのも無理はないのだもの。」
 われもさあらむと思はざりしにもあらざりき。いまはたしかにそれよと疑はずなりて、のたまふままに頷《うなず》きつ。あたりのめづらしければ起きむとする夜着《よぎ》の肩、ながく柔《やわら》かにおさへたまへり。
「ぢつとしておいで、あんばいが
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