れにも惜《お》しかりしが、あと追ふべき力もなくて見おくり果てつ。指す方《かた》もあらでありくともなく歩《ほ》をうつすに、頭《かしら》ふらふらと足の重《おも》たくて行悩《ゆきなや》む、前に行《ゆ》くも、後ろに帰るも皆|見知越《みしりごし》のものなれど、誰《たれ》も取りあはむとはせで往《ゆ》きつ来《きた》りつす。さるにてもなほものありげにわが顔をみつつ行《ゆ》くが、冷《ひやや》かに嘲《あざけ》るが如く憎《にく》さげなるぞ腹立《はらだた》しき。おもしろからぬ町ぞとばかり、足はわれ知らず向直《むきなお》りて、とぼとぼとまた山ある方《かた》にあるき出《いだ》しぬ。
 けたたましき跫音《あしおと》して鷲掴《わしづかみ》に襟《えり》を掴《つか》むものあり。あなやと振返《ふりかえ》ればわが家《いえ》の後見《うしろみ》せる奈四郎《なしろう》といへる力《ちから》逞《たく》ましき叔父の、凄《すさ》まじき気色《けしき》して、
「つままれめ、何処《どこ》をほツつく。」と喚《わめ》きざま、引立《ひつた》てたり。また庭に引出《ひきいだ》して水をやあびせられむかと、泣叫《なきさけ》びてふりもぎるに、おさへたる手をゆるべず、
「しつかりしろ。やい。」
 とめくるめくばかり背を拍《う》ちて宙につるしながら、走りて家に帰りつ。立騒《たちさわ》ぐ召《めし》つかひどもを叱《しか》りつも細引《ほそびき》を持て来さして、しかと両手をゆはへあへず奥まりたる三畳の暗き一室《ひとま》に引立《ひつた》てゆきてそのまま柱に縛《いまし》めたり。近く寄れ、喰《くい》さきなむと思ふのみ、歯がみして睨《にら》まへたる、眼《め》の色こそ怪《あや》しくなりたれ、逆《さか》つりたる眦《まなじり》は憑《つ》きもののわざよとて、寄りたかりて口々にののしるぞ無念なりける。
 おもての方《かた》さざめきて、何処《いずく》にか行《ゆ》きをれる姉上帰りましつと覚《おぼ》し、襖《ふすま》いくつかぱたぱたと音してハヤここに来たまひつ。叔父は室《しつ》の外にさへぎり迎へて、
「ま、やつと取返《とりかえ》したが、縄を解いてはならんぞ。もう眼が血走つてゐて、すきがあると駈け出すぢや。魔《エテ》どのがそれしよびくでの。」
 と戒《いまし》めたり。いふことよくわが心を得たるよ、しかり、隙《ひま》だにあらむにはいかでかここにとどまるべき。
「あ。」とばかりにいらへて姉上はまろび入りて、ひしと取着《とりつ》きたまひぬ。ものはいはでさめざめとぞ泣きたまへる、おん情《なさけ》手《て》にこもりて抱《いだ》かれたるわが胸|絞《しぼ》らるるやうなりき。
 姉上の膝に臥《ふ》したるあひだに、医師|来《きた》りてわが脈をうかがひなどしつ。叔父は医師とともに彼方《あなた》に去りぬ。
「ちさや、どうぞ気をたしかにもつておくれ。もう姉様《ねえさん》はどうしようね。お前、私だよ。姉さんだよ。ね、わかるだらう、私だよ。」
 といきつくづくぢつとわが顔をみまもりたまふ、涙痕《るいこん》したたるばかりなり。
 その心の安んずるやう、強《し》ひて顔つくりてニツコと笑うて見せぬ。
「おお、薄気味《うすきみ》が悪いねえ。」
 と傍《かたわら》にありたる奈四郎《なしろう》の妻なる人|呟《つぶや》きて身ぶるひしき。
 やがてまた人々われを取巻《とりま》きてありしことども責むるが如くに問ひぬ。くはしく語りて疑《うたがい》を解かむとおもふに、をさなき口の順序正しく語るを得むや、根問《ねど》ひ、葉問《はど》ひするに一々《いちいち》説明《ときあ》かさむに、しかもわれあまりに疲れたり。うつつ心に何をかいひたる。
 やうやくいましめはゆるされたれど、なほ心の狂ひたるものとしてわれをあしらひぬ。いふこと信ぜられず、すること皆《みな》人の疑《うたがい》を増すをいかにせむ。ひしと取籠《とりこ》めて庭にも出《いだ》さで日を過しぬ。血色わるくなりて痩《や》せもしつとて、姉上のきづかひたまひ、後見《うしろみ》の叔父夫婦にはいとせめて秘《かく》しつつ、そとゆふぐれを忍びて、おもての景色見せたまひしに、門辺《かどべ》にありたる多くの児《こ》ども我が姿を見ると、一斉《いつせい》に、アレさらはれものの、気狂《きちがい》の、狐つきを見よやといふいふ、砂利《じやり》、小砂利《こじやり》をつかみて投げつくるは不断《ふだん》親しかりし朋達《ともだち》なり。
 姉上は袖《そで》もてわれを庇《かば》ひながら顔を赤うして遁《に》げ入りたまひつ。人目なき処《ところ》にわれを引据《ひきす》ゑつと見るまに取つて伏《ふ》せて、打ちたまひぬ。
 悲しくなりて泣出《なきだ》せしに、あわただしく背《せな》をばさすりて、
「堪忍《かんにん》しておくれよ、よ、こんなかはいさうなものを。」
 といひかけて、
「私《わたし》あもう気でも違ひたいよ。」としみじみと掻口説《かきくど》きたまひたり。いつのわれにはかはらじを、何とてさはあやまるや、世にただ一人なつかしき姉上までわが顔を見るごとに、気を確《たしか》に、心を鎮《しず》めよ、と涙ながらいはるるにぞ、さてはいかにしてか、心の狂ひしにはあらずやとわれとわが身を危《あや》ぶむやうそのたびになりまさりて、果《はて》はまことにものくるはしくもなりもてゆくなる。
 たとへば怪《あや》しき糸の十重二十重《とえはたえ》にわが身をまとふ心地《ここち》しつ。しだいしだいに暗きなかに奥深くおちいりてゆく思《おもい》あり。それをば刈払《かりはら》ひ、遁出《のがれい》でむとするにその術《すべ》なく、すること、なすこと、人見て必ず、眉《まゆ》を顰《ひそ》め、嘲《あざけ》り、笑ひ、卑《いやし》め、罵《ののし》り、はた悲《かなし》み憂《うれ》ひなどするにぞ、気あがり、心《こころ》激《げき》し、ただじれにじれて、すべてのもの皆われをはらだたしむ。
 口惜《くちお》しく腹立たしきまま身の周囲《まわり》はことごとく敵《かたき》ぞと思わるる。町も、家も、樹も、鳥籠《とりかご》も、はたそれ何らのものぞ、姉とてまことの姉なりや、さきには一《ひと》たびわれを見てその弟を忘れしことあり。塵《ちり》一つとしてわが眼に入るは、すべてものの化《け》したるにて、恐しきあやしき神のわれを悩まさむとて現《げん》じたるものならむ。さればぞ姉がわが快復《かいふく》を祈る言《ことば》もわれに心を狂はすやう、わざとさはいふならむと、一《ひと》たびおもひては堪《た》ふべからず、力あらば恣《ほしいまま》にともかくもせばやせよかし、近づかば喰ひさきくれむ、蹴飛《けと》ばしやらむ、掻《かき》むしらむ、透《すき》あらばとびいでて、九《ここの》ツ谺《こだま》とをしへたる、たうときうつくしきかのひとの許《もと》に遁《に》げ去らむと、胸の湧《わ》きたつほどこそあれ、ふたたび暗室にいましめられぬ。

     千呪陀羅尼《せんじゆだらに》

 毒ありと疑へばものも食はず、薬もいかでか飲まむ、うつくしき顔したりとて、優《やさ》しきことをいひたりとて、いつはりの姉にはわれことばもかけじ。眼にふれて見ゆるものとしいへば、たけりくるひ、罵《ののし》り叫びてあれたりしが、つひには声も出《い》でず、身も動かず、われ人をわきまへず心地《ここち》死ぬべくなれりしを、うつらうつら舁《か》きあげられて高き石壇をのぼり、大《おおい》なる門を入りて、赤土《あかつち》の色きれいに掃《は》きたる一条《ひとすじ》の道長き、右左、石燈籠《いしどうろう》と石榴《ざくろ》の樹の小さきと、おなじほどの距離にかはるがはる続きたるを行《ゆ》きて、香《こう》の薫《かおり》しみつきたる太き円柱《まるばしら》の際《きわ》に寺の本堂に据《す》ゑられつ、ト思ふ耳のはたに竹を破《わ》る響《ひびき》きこえて、僧ども五三人《ごさんにん》一斉に声を揃《そろ》へ、高らかに誦《じゆ》する声耳を聾《ろう》するばかり喧《かし》ましさ堪《た》ふべからず、禿顱《とくろ》ならびゐる木のはしの法師ばら、何をかすると、拳《こぶし》をあげて一|人《にん》の天窓《あたま》をうたむとせしに、一幅《ひとはば》の青き光|颯《さつ》と窓を射て、水晶の念珠《ねんじゆ》瞳《ひとみ》をかすめ、ハツシと胸をうちたるに、ひるみて踞《うずく》まる時、若僧《じやくそう》円柱《えんちゆう》をいざり出《い》でつつ、ついゐて、サラサラと金襴《きんらん》の帳《とばり》を絞《しぼ》る、燦爛《さんらん》たる御廚子《みずし》のなかに尊《とうと》き像《すがた》こそ拝まれたれ。一段高まる経の声、トタンにはたたがみ天地《てんち》に鳴りぬ。
 端厳微妙《たんげんみみよう》のおんかほばせ、雲の袖《そで》、霞《かすみ》の袴《はかま》ちらちらと瓔珞《ようらく》をかけたまひたる、玉《たま》なす胸に繊手《せんしゆ》を添へて、ひたと、をさなごを抱《いだ》きたまへるが、仰《あお》ぐ仰ぐ瞳《ひとみ》うごきて、ほほゑみたまふと、見たる時、やさしき手のさき肩にかかりて、姉上は念じたまへり。
 滝やこの堂にかかるかと、折しも雨の降りしきりつ。渦《うずま》いて寄する風の音、遠き方《かた》より呻《うな》り来て、どつと満山《まんざん》に打《うち》あたる。
 本堂|青光《あおびかり》して、はたたがみ堂の空をまろびゆくに、たまぎりつつ、今は姉上を頼までやは、あなやと膝《ひざ》にはひあがりて、ひしとその胸を抱《いだ》きたれば、かかるものをふりすてむとはしたまはで、あたたかき腕《かいな》はわが背《せな》にて組合《くみあ》はされたり。さるにや気も心もよわよわとなりもてゆく、ものを見る明《あきら》かに、耳の鳴るがやみて、恐しき吹降《ふきぶ》りのなかに陀羅尼《だらに》を呪《じゆ》する聖《ひじり》の声々《こえごえ》さわやかに聞きとられつ。あはれに心細くもの凄《すご》きに、身の置処《おきどころ》あらずなりぬ。からだひとつ消えよかしと両手を肩に縋《すが》りながら顔もてその胸を押しわけたれば、襟《えり》をば掻《か》きひらきたまひつつ、乳《ち》の下にわがつむり押入《おしい》れて、両袖《りようそで》を打《うち》かさねて深くわが背《せな》を蔽《おお》ひ給《たま》へり。御仏《みほとけ》のそのをさなごを抱《いだ》きたまへるもかくこそと嬉《うれ》しきに、おちゐて、心地《ここち》すがすがしく胸のうち安く平《たい》らになりぬ。やがてぞ呪《じゆ》もはてたる。雷《らい》の音も遠ざかる。わが背《せ》をしかと抱《いだ》きたまへる姉上の腕《かいな》もゆるみたれば、ソとその懐《ふところ》より顔をいだしてこはごはその顔をば見上げつ。うつくしさはそれにもかはらでなむ、いたくもやつれたまへりけり。雨風のなほはげしく外《おもて》をうかがふことだにならざる、静まるを待てば夜《よ》もすがら暴通《あれとお》しつ。家に帰るべくもあらねば姉上は通夜《つや》したまひぬ。その一夜の風雨にて、くるま山の山中、俗に九《ここの》ツ谺《こだま》といひたる谷、あけがたに杣《そま》のみいだしたるが、忽《たちま》ち淵《ふち》になりぬといふ。
 里の者、町の人|皆《みな》挙《こぞ》りて見にゆく。日を経《へ》てわれも姉上とともに来《きた》り見き。その日|一天《いつてん》うららかに空の色も水の色も青く澄《す》みて、軟風《なんぷう》おもむろに小波《ささなみ》わたる淵の上には、塵《ちり》一葉《ひとは》の浮べるあらで、白き鳥の翼《つばさ》広きがゆたかに藍碧《らんぺき》なる水面を横ぎりて舞へり。
 すさまじき暴風雨《あらし》なりしかな。この谷もと薬研《やげん》の如き形したりきとぞ。
 幾株《いくかぶ》となき松柏《まつかしわ》の根こそぎになりて谷間に吹倒《ふきたお》されしに山腹の土《つち》落ちたまりて、底をながるる谷川をせきとめたる、おのづからなる堤防をなして、凄《すさ》まじき水をば湛《たた》へつ。一《ひと》たびこのところ決潰《けつかい》せむか、城《じよう》の端《はな》の町は水底《みなそこ》の都となるべしと、人々の恐れまどひて、怠《おこた》らず土を装《も》り石を伏《ふ》せて堅き堤防を築きしが、
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