連れられて行ったです。
 後《のち》は自分ばかり、乳母《うば》に手を曳《ひ》かれてお詣《まいり》をしましたッけ。別に拝みようも知らないので、唯《ただ》、母親の病気の快くなるようと、手を合せる、それも遊び半分。
 六月の十五日は、私の誕生日で、その日、月代《さかやき》を剃《そ》って、湯に入ってから、紋着《もんつき》の袖《そで》の長いのを被《き》せてもらいました。
 私がと言っては可笑《おかし》いでしょう。裾模様《すそもよう》の五《いつ》ツ紋《もん》、熨斗目《のしめ》の派手な、この頃聞きゃ加賀染《かがぞめ》とかいう、菊だの、萩《はぎ》だの、桜だの、花束が紋《もん》になっている、時節に構わず、種々《いろいろ》の花を染交《そめま》ぜてあります。尤《もっと》も今時《いまどき》そんな紋着を着る者はない、他国《たこく》には勿論《もちろん》ないですね。
 一体この医王山に、四季の花が一時《いちじ》に開く、その景勝を誇るために、加賀《かが》ばかりで染めるのだそうですな。
 まあ、その紋着を着たんですね、博多《はかた》に緋《ひ》の一本独鈷《いっぽんどっこ》の小児帯《こどもおび》なぞで。
 坊やは綺麗《きれい》になりました。母も後毛《おくれげ》を掻上《かきあ》げて、そして手水《ちょうず》を使って、乳母《うば》が背後《うしろ》から羽織《はお》らせた紋着に手を通して、胸へ水色の下じめを巻いたんだが、自分で、帯を取って〆《しめ》ようとすると、それなり力が抜けて、膝を支《つ》いたので、乳母が慌《あわて》て確乎《しっかり》抱《だ》くと、直《すぐ》に天鵝絨《びろうど》の括枕《くくりまくら》に鳩尾《みぞおち》を圧《おさ》えて、その上へ胸を伏せたですよ。
 産《う》んで下すった礼を言うのに、唯《ただ》御機嫌|好《よ》うとさえ言えば可《い》いと、父から言いつかって、枕頭《まくらもと》に手を支《つ》いて、其処《そこ》へ。顔を上げた私と、枕に凭《もた》れながら、熟《じっ》と眺めた母と、顔が合うと、坊や、もう復《なお》るよと言って、涙をはらはら、差俯向《さしうつむ》いて弱々《よわよわ》となったでしょう。
 父が肩を抱いて、徐《そっ》と横に寝かした。乳母が、掻巻《かいまき》を被《き》せ懸けると、襟《えり》に手をかけて、向うを向いてしまいました。
 台所から、中の室《ま》から、玄関あたりは、ばたばた人の行交《ゆきか》う音。尤《もっと》も帯をしめようとして、濃いお納戸《なんど》の紋着に下じめの装《なり》で倒れた時、乳母が大声で人を呼んだです。
 やがて医者《せんせい》が袴《はかま》の裾《すそ》を、ずるずるとやって駈け込んだ。私には戸外《おもて》へ出て遊んで来いと、乳母が言ったもんだから、庭から出たです。今も忘れない。何とも言いようのない、悲しい心細い思いがしましたな。」
 花売《はなうり》は声細く、
「御道理《ごもっとも》でございますねえ。そして母様《おっかさん》はその後《のち》快《よ》くおなりなさいましたの。」
「お聞きなさい、それからです。
 小児《こども》は切《せめ》て仏の袖《そで》に縋《すが》ろうと思ったでしょう。小立野《こだつの》と言うは場末《ばすえ》です。先ず小さな山くらいはある高台、草の茂った空地沢山《あきちだくさん》な、人通りのない処《ところ》を、その薬師堂《やくしどう》へ参ったですが。
 朝の内に月代《さかやき》、沐浴《ゆあみ》なんかして、家を出たのは正午《ひる》過《すぎ》だったけれども、何時《いつ》頃薬師堂へ参詣して、何処《どこ》を歩いたのか、どうして寝たのか。
 翌朝《あくるあさ》はその小立野から、八坂《はっさか》と言います、八段《やきだ》に黒い滝の落ちるような、真暗《まっくら》な坂を降りて、川端へ出ていた。川は、鈴見《すずみ》という村の入口で、流《ながれ》も急だし、瀬の色も凄《すご》いです。
 橋は、雨や雪に白《しら》っちゃけて、長いのが処々《ところどころ》、鱗《うろこ》の落ちた形に中弛《なかだる》みがして、のらのらと架《かか》っているその橋の上に茫然《ぼんやり》と。
 後《のち》に考えてこそ、翌朝《あくるあさ》なんですが、その節《せつ》は、夜を何処《どこ》で明かしたか分らないほどですから、小児《こども》は晩方《ばんがた》だと思いました。この医王山の頂《いただき》に、真白な月が出ていたから。
 しかし残月《ざんげつ》であったんです。何為《なぜ》かというにその日の正午《ひる》頃、ずっと上流の怪《あや》しげな渡《わたし》を、綱に掴《つか》まって、宙へ釣《つる》されるようにして渡った時は、顔が赫《かっ》とする晃々《きらきら》と烈《はげし》い日当《ひあたり》。
 こういうと、何だか明方《あけがた》だか晩方《ばんがた》だか、まるで夢のように聞えるけれども、渡《わたし》を渡ったには全く渡ったですよ。
 山路《やまじ》は一日がかりと覚悟をして、今度来るには麓《ふもと》で一泊したですが、昨日《きのう》丁度《ちょうど》前《ぜん》の時と同一《おなじ》時刻、正午《ひる》頃です。岩も水も真白な日当《ひあたり》の中を、あの渡《わたし》を渡って見ると、二十年の昔に変らず、船着《ふなつき》の岩も、船出《ふなで》の松も、確《たしか》に覚えがありました。
 しかし九歳《ここのつ》で越した折は、爺《じい》さんの船頭がいて船を扱いましたっけ。
 昨日《きのう》は唯《ただ》綱を手繰《たぐ》って、一人で越したです。乗合《のりあい》も何《なんに》もない。
 御存じの烈しい流《ながれ》で、棹《さお》の立つ瀬はないですから、綱は二条《ふたすじ》、染物《そめもの》をしんし[#「しんし」に傍点]張《ばり》にしたように隙間《すきま》なく手懸《てがかり》が出来ている。船は小さし、胴《どう》の間《ま》へ突立《つッた》って、釣下《つりさが》って、互違《たがいちがい》に手を掛けて、川幅三十|間《けん》ばかりを小半時《こはんとき》、幾度《いくたび》もはっと思っちゃ、危《あぶな》さに自然《ひとりで》に目を塞《ふさ》ぐ。その目を開ける時、もし、あの丈《たけ》の伸びた菜種《なたね》の花が断崕《がけ》の巌越《いわごし》に、ばらばら見えんでは、到底《とても》この世の事とは思われなかったろうと考えます。
 十里四方には人らしい者もないように、船を纜《もや》った大木の松の幹に立札《たてふだ》して、渡船銭《わたしせん》三文とある。
 話は前後《あとさき》になりました。
 そこで小児《こども》は、鈴見《すずみ》の橋に彳《たたず》んで、前方《むこう》を見ると、正面の中空《なかぞら》へ、仏の掌《てのひら》を開いたように、五本の指の並んだ形、矗々《すくすく》立ったのが戸室《とむろ》の石山《いしやま》。靄《もや》か、霧か、後《うしろ》を包んで、年に二、三度|好《よ》く晴れた時でないと、蒼《あお》く顕《あらわ》れて見えないのが、即《すなわ》ちこの医王山です。
 其処《そこ》にこの山があるくらいは、予《かね》て聞いて、小児心《こどもごころ》にも方角を知っていた。そして迷子《まいご》になったか、魔に捉《と》られたか、知れもしないのに、稚《ちいさ》な者は、暢気《のんき》じゃありませんか。
 それが既に気が変になっていたからであろうも知れんが、お腹《なか》が空かぬだけに一向《いっこう》苦にならず。壊れた竹の欄干《らんかん》に掴《つかま》って、月の懸《かか》った雲の中の、あれが医王山と見ている内に、橋板《はしいた》をことこと踏んで、
 向《むこう》の山に、猿が三|疋《びき》住みやる。中の小猿が、能《よ》う物《もの》饒舌《しゃべ》る。何と小児《こども》ども花折《はなお》りに行《ゆ》くまいか。今日の寒いに何の花折りに。牡丹《ぼたん》、芍薬《しゃくやく》、菊の花折りに。一本折っては笠に挿《さ》し、二本折っては、蓑《みの》に挿し、三枝《みえだ》四枝《よえだ》に日が暮れて……とふと唄いながら。……
 何となく心に浮んだは、ああ、向うの山から、月影に見ても色の紅《くれない》な花を採って来て、それを母親の髪に挿したら、きっと病気が復《なお》るに違いないと言う事です。また母は、その花を簪《かんざし》にしても似合うくらい若かったですな。」
 高坂は旧《もと》来た方《かた》を顧《かえり》みたが、草の外《ほか》には何もない、一歩《ひとあし》前《さき》へ花売《はなうり》の女、如何《いか》にも身に染《し》みて聞くように、俯向《うつむ》いて行《ゆ》くのであった。
「そして確《たしか》に、それが薬師《やくし》のお告《つげ》であると信じたですね。
 さあ思い立っては矢《や》も楯《たて》も堪《たま》らない、渡り懸けた橋を取って返して、堤防《どて》伝いに川上へ。
 後《あと》でまた渡《わたし》を越えなければならない路ですがね、橋から見ると山の位置《ありか》は月の入《い》る方へ傾いて、かえって此処《ここ》から言うと、対岸《むこうぎし》の行留《ゆきどま》りの雲の上らしく見えますから、小児心《こどもごころ》に取って返したのが丁《ちょう》ど幸《さいわい》と、橋から渡場《わたしば》まで行《ゆ》く間の、あの、岩淵《いわぶち》の岩は、人を隔てる医王山の一《いち》の砦《とりで》と言っても可《よ》い。戸室《とむろ》の石山《いしやま》の麓が直《すぐ》に流《ながれ》に迫る処《ところ》で、累《かさな》り合った岩石だから、路は其処《そこ》で切れるですものね。
 岩淵をこちらに見て、大方《おおかた》跣足《はだし》でいたでしょう、すたすた五里も十里も辿《たど》った意《つもり》で、正午《ひる》頃に着いたのが、鳴子《なるこ》の渡《わたし》。」

       四

「馬士《まご》にも、荷担夫《にかつぎ》にも、畑打《はたう》つ人にも、三|人《にん》二|人《にん》ぐらいずつ、村一つ越しては川沿《かわぞい》の堤防《どて》へ出るごとに逢ったですが、皆《みんな》唯《ただ》立停《たちどま》って、じろじろ見送ったばかり、言葉を懸ける者はなかったです。これは熨斗目《のしめ》の紋着振袖《もんつきふりそで》という、田舎に珍《めずら》しい異形《いぎょう》な扮装《なり》だったから、不思議な若殿、迂濶《うかつ》に物も言えないと考えたか、真昼間《まっぴるま》、狐が化けた? とでも思ったでしょう。それとも本人|逆上返《のぼせかえ》って、何を言われても耳に入らなかったのかも解《わか》らんですよ。
 ふとその渡場《わたしば》の手前で、背後《うしろ》から始めて呼び留めた親仁《おやじ》があります。兄《にい》や、兄《にい》やと太い調子。
 私は仰向《あおむ》いて見ました。
 ずんぐり脊《せ》の高い、銅色《あかがねいろ》の巌乗造《がんじょうづくり》な、年配四十五、六、古い単衣《ひとえ》の裾《すそ》をぐいと端折《はしょ》って、赤脛《からずね》に脚絆《きゃはん》、素足に草鞋《わらじ》、かっと眩《まばゆ》いほど日が照るのに、笠は被《かぶ》らず、その菅笠《すげがさ》の紐に、桐油合羽《とうゆがっぱ》を畳《たた》んで、小さく縦《たて》に長く折ったのを結《ゆわ》えて、振分《ふりわ》けにして肩に投げて、両提《ふたつさげ》の煙草入《たばこいれ》、大きいのをぶら提《さ》げて、どういう気か、渋団扇《しぶうちわ》で、はたはたと胸毛を煽《あお》ぎながら、てくりてくり寄って来て、何処《どこ》へ行《ゆ》くだ。
 御山《おやま》へ花を取りに、と返事すると、ふんそれならば可《よ》し、小父《おじ》が同士《どうし》に行って遣《や》るべい。但《ただし》、この前《さき》の渡《わたし》を一つ越さねばならぬで、渡守《わたしもり》が咎立《とがめだて》をすると面倒じゃ、さあ、負《おぶ》され、と言うて背中を向けたから、合羽《かっぱ》を跨《また》ぐ、足を向うへ取って、猿《さる》の児《こ》背負《おんぶ》、高く肩車に乗せたですな。
 その中《うち》も心の急《せ》く、山はと見ると、戸室《とむろ》が低くなって、この医王山が鮮明《あざやか》な深翠《ふかみどり》、肩の上から下に瞰下《みおろ》されるような気がしま
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