がないぞと、近寄ったのを五、六人、蹴散らして、ぱっと退《ひ》く中を、衝《つ》と抜けると、岩を飛び、岩を飛び、岩を飛んで、やがて槍を杖《つ》いて岩角《いわかど》に隠れて、それなりけりというので、さてはと、それからは私がその娘に出逢う門出《かどで》だった誕生日に、鈴見《すずみ》の橋の上まで来ては、こちらを拝んで帰り帰りしたですが、母が亡《なく》なりました翌年から、東京へ修行に参って、国へ帰ったのは漸《やっ》と昨年。始終望んでいましたこの山へ、後《あと》を尋ねて上《のぼ》る事が、物に取紛《とりまぎ》れている中《うち》に、申訳《もうしわけ》もない飛んだ身勝手な。
 またその薬を頂かねばならないようになったです。以前はそれがために類少《たぐいすくな》い女を一人、犠《いけにえ》にしたくらいですから、今度は自分がどんな辛苦《しんく》も決して厭《いと》わない。いかにもしてその花が欲しいですが。」
 言う中《うち》に胸が迫って、涙を湛《たた》えたためばかりでない。ふと、心付《こころづ》くと消えたように女の姿が見えないのは、草が深くなった所為《せい》であった。
 丈《たけ》より高い茅萱《ちがや》を潜《くぐ》って、肩で掻分《かきわ》け、頭《つむり》で避《よ》けつつ、見えない人に、物言い懸《か》ける術《すべ》もないので、高坂は御経《おきょう》を取って押戴《おしいただ》き、
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山川険谷《さんせんけんこく》  幽邃所生《ゆうすいしょしょう》  卉木薬艸《きぼくやくそう》  大小諸樹《だいしょうしょじゅ》
百穀苗稼《ひゃくこくびょうが》  甘庶葡萄《かんしょぶどう》  雨之所潤《うししょじゅん》  無不豊足《むふぶそく》
乾地普洽《かんちぶごう》  薬木並茂《やくぼくひょうも》  其雲所出《ごうんしょしゅつ》  一味之水《いちみしすい》
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 葎《むぐら》の中に日が射して、経巻《きょうかん》に、蒼く月かと思う草の影が映《うつ》ったが、見つつ進む内に、ちらちらと紅《くれない》来《きた》り、黄《き》来《きた》り、紫《むらさき》去《さ》り、白《しろ》過《す》ぎて、蝶《ちょう》の戯《たわむ》るる風情《ふぜい》して、偈《げ》に斑々《はんはん》と印《いん》したのは、はや咲交《さきまじ》る四季の花。
 忽然《こつねん》として天《てん》開《ひら》け、身は雲に包まれて、妙《たえ》なる薫《かおり》袖《そで》を蔽《おお》い、唯《と》見ると堆《うずたか》き雪の如く、真白《ましろ》き中に紅《くれない》ちらめき、瞶《みつ》むる瞳《ひとみ》に緑|映《えい》じて、颯《さっ》と分れて、一つ一つ、花片《はなびら》となり、葉となって、美女ヶ原の花は高坂の袂《たもと》に匂《にお》ひ、胸に咲いた。
 花売《はなうり》は籠《かご》を下《おろ》して、立休《たちやす》ろうていた。笠を脱いで、襟脚《えりあし》長く玉《たま》を伸《の》べて、瑩沢《つややか》なる黒髪を高く結んだのに、何時《いつ》の間にか一輪の小《ちいさ》な花を簪《かざ》していた、褄《つま》はずれ、袂《たもと》の端、大輪《たいりん》の菊の色白き中に佇《たたず》んで、高坂を待って、莞爾《にっこ》と笑《え》む、美しく気高き面《おも》ざし、威《い》ある瞳に屹《きっ》と射られて、今物語った人とも覚えず、はっと思うと学生は、既に身を忘れ、名を忘れて、唯《ただ》九《ここの》ツばかりの稚児《おさなご》になった思いであった。
「さあ、お話に紛《まぎ》れて遅く来ましたから、もうお月様が見えましょう。それまでにどうぞ手伝って花籠に摘《つ》んで下さいまし。」
 と男を頼るように言われたけれども、高坂はかえって唯々《いい》として、あたかも神に事《つか》うるが如く、左に菊を折り、右に牡丹《ぼたん》を折り、前に桔梗《ききょう》を摘み、後《うしろ》に朝顔を手繰《たぐ》って、再び、鈴見《すずみ》の橋、鳴子《なるこ》の渡《わたし》、畷《なわて》の夕立、黒婆《くろばば》の生豆腐《なまどうふ》、白姥《しろうば》の焼茄子《やきなすび》、牛車《うしぐるま》の天女、湯宿《ゆやど》の月、山路《やまじ》の利鎌《とがま》、賊の住家《すみか》、戸室口《とむろぐち》の別《わかれ》を繰返して語りつつ、やがて一巡した時、花籠は美しく満たされたのである。
 すると籠は、花ながら花の中に埋《う》もれて消えた。
 月影が射したから、伏拝《ふしおが》んで、心を籠《こ》めて、透《す》かし透かし見たけれども、※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したけれども、見遣《みや》ったけれども、ものの薫《かおり》に形あって仄《ほのか》に幻《まぼろし》かと見ゆるばかり、雲も雪も紫も偏《ひとえ》に夜の色に紛《まぎ》るるのみ。
 殆《ほとん》ど絶望して倒れようとした時、思
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