い懸《が》けず見ると、肩を並べて斉《ひと》しく手を合せてすらりと立った、その黒髪の花|唯《ただ》一輪、紅《くれない》なりけり月の光に。
 高坂がその足許《あしもと》に平伏《ひれふ》したのは言うまでもなかった。
 その時肩を落して、美女《たおやめ》が手を取ると、取られて膝をずらして縋着《すがりつ》いて、その帯のあたりに面《おもて》を上げたのを、月を浴びて※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]長《ろうた》けた、優しい顔で熟《じっ》と見て、少し頬《ほお》を傾けると、髪がそちらへはらはらとなるのを、密《そ》と押える手に、簪《かざし》を抜いて、戦《わなな》く医学生の襟《えり》に挟《はさ》んで、恍惚《うっとり》したが、瞳《ひとみ》が動き、
「ああ、お可懐《なつかし》い。思うお方《かた》の御病気はきっとそれで治《なお》ります。」
 あわれ、高坂が緊乎《しっか》と留《と》めた手は徒《いたずら》に茎を掴《つか》んで、袂《たもと》は空に、美女ヶ原は咲満《さきみ》ちたまま、ゆらゆらと前へ出たように覚えて、人の姿は遠くなった。
 立って追おうとすると、岩に牡丹《ぼたん》の咲重《さきかさな》って、白き象《ぞう》の大《おおい》なる頭《かしら》の如き頂《いただき》へ、雲に入《い》るよう衝《つ》と立った時、一度その鮮明《あざやか》な眉《まゆ》が見えたが、月に風なき野となんぬ。
 高坂は※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と坐した。
 かくて胸なる紅《くれない》の一輪を栞《しおり》に、傍《かたわら》の芍薬《しゃくやく》の花、方《ほう》一尺なるに経《きょう》を据《す》えて、合掌《がっしょう》して、薬王品《やくおうほん》を夜もすがら。



底本:「鏡花短篇集」岩波文庫、岩波書店
   1987(昭和62)年9月16日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店
   1942(昭和17)年7月初版発行
初出:「二六新報」
   1903年(明治36年)5月16〜30日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2001年12月22日公開
2005年12月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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