薬草取
泉鏡花
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)日光掩蔽《にっこうおんぺい》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)空|澄《す》み、
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、
−−
一
[#ここから4字下げ]
日光掩蔽《にっこうおんぺい》 地上清涼《ちじょうしょうりょう》 靉靆垂布《あいたいすいぶ》 如可承攬《にょかしょうらん》
其雨普等《ごうぶとう》 四方倶下《しほうぐげ》 流樹無量《りゅうじゅむりょう》 率土充洽《そつどじゅうごう》
山川険谷《さんせんけんこく》 幽邃所生《ゆうすいしょじょう》 卉木薬艸《きぼくやくそう》 大小諸樹《だいしょうしょじゅ》
[#ここで字下げ終わり]
「もし憚《はばかり》ながらお布施《ふせ》申しましょう。」
背後《うしろ》から呼ぶ優《やさ》しい声に、医王山《いおうざん》の半腹、樹木の鬱葱《うっそう》たる中を出《い》でて、ふと夜の明けたように、空|澄《す》み、気|清《きよ》く、時しも夏の初《はじめ》を、秋見る昼の月の如《ごと》く、前途遥《ゆくてはるか》なる高峰《たかね》の上に日輪《にちりん》を仰《あお》いだ高坂《こうさか》は、愕然《がくぜん》として振返《ふりかえ》った。
人の声を聞き、姿を見ようとは、夢にも思わぬまで、遠く里を離れて、はや山深く入っていたのに、呼懸《よびか》けたのは女であった。けれども、高坂は一見して、直《ただち》に何ら害心《がいしん》のない者であることを認め得た。
女は片手拝《かたておが》みに、白い指尖《ゆびさき》を唇にあてて、俯向《うつむ》いて経《きょう》を聞きつつ、布施をしようというのであるから、
「否《いや》、私《わし》は出家《しゅっけ》じゃありません。」
と事もなげに辞退しながら、立停《たちどま》って、女のその雪のような耳許《みみもと》から、下膨《しもぶく》れの頬《ほお》に掛《か》けて、柔《やわらか》に、濃い浅葱《あさぎ》の紐《ひも》を結んだのが、露《つゆ》の朝顔の色を宿《やど》して、加賀笠《かががさ》という、縁《ふち》の深いので眉《まゆ》を隠した、背には花籠《はなかご》、脚《あし》に脚絆《きゃはん》、身軽に扮装《いでた》ったが、艶麗《あでやか》な姿を眺めた。
かなたは笠の下から見透《みすか》すが如くにして、
「これは失礼なことを申しました。お姿は些《ちっ》ともそうらしくはございませんが、結構な御経《おきょう》をお読みなさいますから、私《わたくし》は、あの、御出家ではございませんでも、御修行者《ごしゅぎょうじゃ》でいらっしゃいましょうと存じまして。」
背広の服で、足拵《あしごしら》えして、帽《ぼう》を真深《まぶか》に、風呂敷包《ふろしきづつみ》を小さく西行背負《さいぎょうじょい》というのにしている。彼は名を光行《みつゆき》とて、医科大学の学生である。
時に、妙法蓮華経薬草諭品《みょうほうれんげきょうやくそうゆほん》、第五偈《だいごげ》の半《なかば》を開いたのを左の掌《たなそこ》に捧《ささ》げていたが、右手《めて》に支《つ》いた力杖《ステッキ》を小脇に掻上《かいあ》げ、
「そりゃまあ、修行者は修行者だが、まだ全然《まるで》素人《しろうと》で、どうして御布施《ごふせ》を戴くようなものじゃない。
読方《よみかた》だって、何だ、大概《たいがい》、大学朱熹章句《だいがくしゅきしょうく》で行《ゆ》くんだから、尊《とうと》い御経《おきょう》を勿体《もったい》ないが、この山には薬の草が多いから、気の所為《せい》か知らん。麓《ふもと》からこうやって一里ばかりも来たかと思うと、風も清々《すがすが》しい薬の香《か》がして、何となく身に染《し》むから、心願《しんがん》があって近頃から読み覚えたのを、誦《とな》えながら歩行《ある》いているんだ。」
かく打明《うちあ》けるのが、この際|自他《じた》のためと思ったから、高坂は親しく先《ま》ず語って、さて、
「姉《ねえ》さん、お前さんは麓《ふもと》の村にでも住んでいる人なんか。」
「はい、二俣村《ふたまたむら》でございます。」
「あああの、越中《えっちゅう》の蛎波《となみ》へ通《かよ》う街道で、此処《ここ》に来る道の岐《わか》れる、目まぐるしいほど馬の通る、彼処《あすこ》だね。」
「さようでございます。もう路《みち》が悪うございまして、車が通りませんものですから、炭でも薪《たきぎ》でも、残らず馬に附けて出しますのでございます。
それに丁《ちょう》どこの御山《みやま》の石の門のようになっております
次へ
全15ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング