、戸室口《とむろぐち》から石を切出《きりだ》しますのを、皆《みんな》馬で運びますから、一人で五|疋《ひき》も曳《ひ》きますのでございますよ。」
「それではその麓から来たんだね、唯《たった》一人。……」
 静《しずか》に歩《ほ》を移していた高坂は、更にまた女の顔を見た。
「はい、一人でございます、そしてこちらへ参りますまで、お姿を見ましたのは、貴方《あなた》ばかりでございますよ。」
 いかにもという面色《おももち》して、
「私《わたし》もやっぱり、そうさ、半里ばかりも後《あと》だった、途中で年寄った樵夫《きこり》に逢《あ》って、路《みち》を聞いた外《ほか》にはお前さんきり。
 どうして往《い》って還《かえ》るまで、人《ひと》ッ子《こ》一人《ひとり》いようとは思わなかった。」
 この辺《あたり》唯《ただ》なだらかな蒼海原《あおうなばら》、沖へ出たような一面の草を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》しながら、
「や、ものを言っても一つ一つ谺《こだま》に響くぞ、寂《さび》しい処《ところ》へ、能《よ》くお前さん一人で来たね。」
 女は乳《ち》の上へ右左、幅広く引掛《ひっか》けた桃色の紐に両手を挟《はさ》んで、花籃《はなかご》を揺直《ゆりなお》し、
「貴方《あなた》、その樵夫《きこり》の衆《しゅう》にお尋ねなすって可《よ》うございました。そんなに嶮《けわ》しい坂ではございませんが、些《ちっ》とも人が通《かよ》いませんから、誠に知れにくいのでございます。」
「この奥の知れない山の中へ入るのに、目標《めじるし》があの石ばかりじゃ分らんではないかね。
 それも、南北《みなみきた》、何方《どちら》か医王山道《いおうざんみち》とでも鑿《ほ》りつけてあればまだしもだけれど、唯《ただ》河原に転《ころが》っている、ごろた石の大きいような、その背後《うしろ》から草の下に細い道があるんだもの、ちょいと間違えようものなら、半年|経歴《へめぐ》っても頂《いただき》には行《ゆ》かれないと、樵夫《きこり》も言ったんだが、全体何だって、そんなに秘《かく》して置く山だろう。全くあの石の裏より外《ほか》に、何処《どこ》も路はないのだろうか。」
「ございませんとも、この路筋《みちすじ》さえ御存じで在《い》らっしゃれば、世を離れました寂しさばかりで、獣《けだもの》も可恐《おそろしい》のはおりませんが、一足でも間違えて御覧なさいまし、何千|丈《じょう》とも知れぬ谷で、行留《ゆきどま》りになりますやら、断崖《きりぎし》に突当《つきあた》りますやら、流《ながれ》に岩が飛びましたり、大木の倒れたので行《ゆ》く前《さき》が塞《ふさが》ったり、その間には草樹《くさき》の多いほど、毒虫もむらむらして、どんなに難儀でございましょう。
 旧《もと》へ帰るか、倶利伽羅峠《くりからとうげ》へ出抜《でぬ》けますれば、無事に何方《どちら》か国へ帰られます。それでなくって、無理に先へ参りますと、終局《しまい》には草一条《くさひとすじ》も生えません焼山《やけやま》になって、餓死《うえじに》をするそうでございます。
 本当に貴方《あなた》がおっしゃいます通り、樵夫《きこり》がお教え申しました石は、飛騨《ひだ》までも末広《すえひろ》がりの、医王の要石《かなめいし》と申しまして、一度|踏外《ふみはず》しますと、それこそ路がばらばらになってしまいますよ。」
 名だたる北国《ほくこく》秘密の山、さもこそと思ったけれども、
「しかし一体、医王というほど、此処《ここ》で薬草が採れるのに、何故《なぜ》世間とは隔《へだた》って、行通《ゆきかよい》がないのだろう。」
「それは、あの承《うけたまわ》りますと、昔から御領主の御禁山《おとめやま》で、滅多《めった》に人をお入れなさらなかった所為《せい》なんでございますって。御領主ばかりでもござんせん。結構な御薬《おくすり》の採れます場所は、また御守護の神々《かみがみ》仏様《ほとけさま》も、出入《ではいり》をお止《と》め遊ばすのでございましょうと存じます。」
 譬《たと》えば仙境《せんきょう》に異霊《いれい》あって、恣《ほしいまま》に人の薬草を採る事を許さずというが如く聞えたので、これが少《すくな》からず心に懸《かか》った。
「それでは何か、私《わたし》なんぞが入って行って、欲《ほし》い草を取って帰っては悪いのか。」
 と高坂はやや気色《けしき》ばんだが、悚然《ぞっ》と肌寒《はださむ》くなって、思わず口の裡《うち》で、
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慧雲含潤《えうんがんじゅん》  電光晃耀《でんこうこうよう》  雷声遠震《らいじょうおんしん》  令衆悦予《れいじゅえつよ》
日光掩蔽《にっこうおんぺい》  地上清涼《ちじょうしょうりょう》  靉靆垂布《あいたいすいぶ》  如可
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