解《わか》らない古襖《ふるぶすま》の正面、板の間《ま》のような床《ゆか》を背負《しょ》って、大胡坐《おおあぐら》で控えたのは、何と、鳴子《なるこ》の渡《わたし》を仁王立《におうだち》で越した抜群《ばつぐん》なその親仁《おやじ》で。
恍惚《うっとり》した小児《こども》の顔を見ると、過日《いつか》の四季の花染《はなぞめ》の袷《あわせ》を、ひたりと目の前へ投げて寄越《よこ》して、大口《おおぐち》を開《あ》いて笑った。
や、二人とも気に入った、坊主《ぼうず》は児《こ》になれ、女はその母《おっか》になれ、そして何時《いつ》までも娑婆《しゃば》へ帰るな、と言ったんです。
娘は乱髪《みだれがみ》になって、その花を持ったまま、膝に手を置いて、首垂《うなだ》れて黙っていた。その返事を聞く手段であったと見えて、私は二晩、土間の上へ、可恐《おそろし》い高い屋根裏に釣った、駕籠《かご》の中へ入れて釣《つる》されたんです。紙に乗せて、握飯《にぎりめし》を突込《つッこ》んでくれたけれど、それが食べられるもんですか。
垂《たれ》から透《すか》して、土間へ焚火《たきび》をしたのに雪のような顔を照らされて、娘が縛られていたのを見ましたが、それなり目が眩《くら》んでしまったです。どんと駕籠《かご》が土間に下りた時、中から五、六|疋《ぴき》鼠がちょろちょろと駈出《かけだ》したが、代《かわり》に娘が入って来ました。
薫《かおり》の高い薬を噛んで口移しに含められて、膝に抱かれたから、一生懸命に緊乎《しっかり》縋《すが》り着くと、背中へ廻った手が空を撫《な》でるようで、娘は空蝉《うつせみ》の殻《から》かと見えて、唯《たっ》た二晩がほどに、糸のように瘠《や》せたです。
もうお目に懸《かか》られぬ、あの花染《はなぞめ》のお小袖《こそで》は記念《かたみ》に私に下さいまし。しかし義理がありますから、必ずこんな処《ところ》に隠家《かくれが》があると、町へ帰っても言うのではありません、と蒼白い顔して言い聞かす中《うち》に、駕籠《かご》が舁《か》かれて、うとうとと十四、五|町《ちょう》。
奥様、此処《ここ》まで、と声がして、駕籠が下りると、一人手を取って私を外へ出しました。
左右《ひだりみぎ》に土下座《どげざ》して、手を支《つ》いていた中に馬士《まご》もいた。一人が背中に私を負《おぶ》うと、娘は駕籠から出て見送ったが、顔に袖《そで》を当てて、長柄《ながえ》にはッと泣伏《なきふ》しました。それッきり。」
高坂は声も曇って、
「私を負《おぶ》った男は、村を離れ、川を越して、遙《はるか》に鈴見《すずみ》の橋の袂《たもと》に差置《さしお》いて帰りましたが、この男は唖《おうし》と見えて、長い途《みち》に一言も物を言やしません。
私は死んだ者が蘇生《よみがえ》ったようになって、家《うち》へ帰りましたが、丁度《ちょうど》全三月《まるみつき》経《た》ったです。
花を枕頭《まくらもと》に差置《さしお》くと、その時も絶え入っていた母は、呼吸《いき》を返して、それから日増《ひまし》に快《よ》くなって、五年経ってから亡くなりました。魔隠《まかくし》に逢った小児《こども》が帰った喜びのために、一旦《いったん》本復《ほんぷく》をしたのだという人もありますが、私は、その娘の取ってくれた薬草の功徳《くどく》だと思うです。
それにつけても、恩人は、と思う。娘は山賊に捕われた事を、小児心《こどもごころ》にも知っていたけれども、堅《かた》く言付《いいつ》けられて帰ったから、その頃三ヶ国|横行《おうこう》の大賊《たいぞく》が、つい私どもの隣《となり》の家《うち》へ入った時も、何《なんに》も言わないで黙っていました。
けれども、それから足が附いて、二俣《ふたまた》の奥、戸室《とむろ》の麓《ふもと》、岩で城を築《つ》いた山寺に、兇賊《きょうぞく》籠《こも》ると知れて、まだ邏卒《らそつ》といった時分、捕方《とりかた》が多人数《たにんず》、隠家《かくれが》を取巻いた時、表門の真只中《まっただなか》へ、その親仁《おやじ》だと言います、六尺一つの丸裸体《まるはだか》、脚絆《きゃはん》を堅く、草鞋《わらじ》を引〆《ひきし》め、背中へ十文字に引背負《ひっしょ》った、四季の花染《はなぞめ》の熨斗目《のしめ》の紋着《もんつき》、振袖《ふりそで》が颯《さっ》と山颪《やまおろし》に縺《もつ》れる中に、女の黒髪《くろかみ》がはらはらと零《こぼ》れていた。
手に一条《ひとすじ》大身《おおみ》の槍《やり》を提《ひっさ》げて、背負《しょ》った女房が死骸でなくば、死人の山を築《きず》くはず、無理に手活《ていけ》の花にした、申訳《もうしわけ》の葬《とむらい》に、医王山の美女ヶ原、花の中に埋《うず》めて帰る。汝《うぬ》ら見送っても命
前へ
次へ
全15ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング