、膝枕《ひざまくら》をさせて、始終|集《たか》って来る馬蠅《うまばえ》を、払ってくれたのを、現に苦《くるし》みながら覚えています。車に乗った天女に抱かれて、多人数《たにんず》に囲まれて通《かよ》った時、庚申堂《こうしんどう》の傍《わき》に榛《はん》の木で、半《なか》ば姿を秘《かく》して、群集《ぐんじゅ》を放れてすっくと立った、脊《せい》の高い親仁《おやじ》があって、熟《じっ》と私どもを見ていたのが、確《たしか》に衣服を脱がせた奴と見たけれども、小児《こども》はまだ口が利けないほど容体《ようだい》が悪かったんですな。
 私はただその気高《けだか》い艶麗《あでやか》な人を、今でも神か仏かと、思うけれど、後《あと》で考えると、先ずこうだろうと、思われるのは、姥《うば》の娘で、清水谷《しみずだに》の温泉へ、奉公《ほうこう》に出ていたのを、祭に就《つ》いて、村の若い者が借りて来て八ヶ|村《そん》九ヶ|村《そん》をこれ見よと喚《わめ》いて歩行《ある》いたものでしょう。娘はふとすると、湯女《ゆな》などであったかも知れないです。」

       五

「それからその人の部屋とも思われる、綺麗《きれい》な小座敷《こざしき》へ寝かされて、目の覚める時、物の欲しい時、咽《のど》の乾く時、涙の出る時、何時《いつ》もその娘が顔を見せない事はなかったです。
 自分でも、もう、病気が復《なお》ったと思った晩、手を曳いて、てらてら光る長い廊下《ろうか》を、湯殿《ゆどの》へ連れて行って、一所《いっしょ》に透通《すきとお》るような温泉《いでゆ》を浴びて、岩を平《たいら》にした湯槽《ゆぶね》の傍《わき》で、すっかり体を流してから、櫛《くし》を抜いて、私の髪を柔《やわらか》く梳《す》いてくれる二櫛三櫛《ふたくしみくし》、やがてその櫛を湯殿の岩の上から、廊下の灯《あかり》に透《すか》して、気高い横顔で、熟《じっ》と見て、ああ好《い》い事、美しい髪も抜けず、汚《きたな》い虫も付かなかったと言いました。私も気がさして一所《いっしょ》に櫛を瞶《みつ》めたが、自分の膚《はだ》も、人の体も、その時くらい清く、白く美しいのは見た事がない。
 私は新しい着物を着せられ、娘は桃色の扱帯《しごき》のまま、また手を曳いて、今度は裏梯子《うらばしご》から二階へ上《あが》った。その段を昇り切ると、取着《とッつき》に一室《ひとま》、新しく建増《たてま》したと見えて、襖《ふすま》がない、白い床《ゆか》へ、月影が溌《ぱっ》と射した。両側の部屋は皆|陰々《いんいん》と灯《ともし》を置いて、鎮《しずま》り返った夜半《よなか》の事です。
 好《い》い月だこと、まあ、とそのまま手を取って床板を蹈んで出ると、小窓《こまど》が一つ。それにも障子《しょうじ》がないので、二人で覗《のぞ》くと、前の甍《いらか》は露が流れて、銀が溶けて走るよう。
 月は山の端《は》を放れて、半腹《はんぷく》は暗いが、真珠を頂いた峰は水が澄んだか明るいので、山は、と聞くと、医王山だと言いました。
 途端にくゎいと狐が鳴いたから、娘は緊乎《しっか》と私を抱く。その胸に額《ひたい》を当てて、私は我知らず、わっと泣いた。
 怖《こわ》くはないよ、否《いいえ》怖いのではないと言って、母親の病気の次第。
 こういう澄み渡った月に眺めて、その色の赤く輝く花を採って帰りたいと、始《はじめ》てこの人ならばと思って、打明《うちあ》けて言うと、暫《しばら》く黙って瞳《ひとみ》を据《す》えて、私の顔を見ていたが、月夜に色の真紅《しんく》な花――きっと探しましょうと言って、――可《よ》し、可《よ》し、女の念《おもい》で、と後《あと》を言い足したですね。
 翌晩《あくるばん》、夜更《よふ》けて私を起しますから、素《もと》よりこっちも目を開けて待った処《ところ》、直ぐに支度《したく》をして、その時、帯をきりりと〆《し》めた、引掛《ひっかけ》に、先刻《さっき》言いましたね、刃《は》を手拭《てぬぐい》でくるくると巻いた鎌一|挺《ちょう》。
 それから昨夜《ゆうべ》の、その月の射す窓から密《そっ》と出て、瓦屋根《かわらやね》へ下りると、夕顔の葉の搦《から》んだ中へ、梯子《はしご》が隠して掛けてあった。伝《つたわ》って庭へ出て、裏木戸の鍵をがらりと開けて出ると、有明月《ありあけづき》の山の裾《すそ》。
 医王山は手に取るように見えたけれど、これは秘密の山の搦手《からめて》で、其処《そこ》から上《のぼ》る道はないですから、戸室口《とむろぐち》へ廻って、攀《よ》じ上《のぼ》ったものと見えます。さあ、此処《ここ》からが目差《めざ》す御山《おやま》というまでに、辻堂《つじどう》で二晩《ふたばん》寝ました。
 後《あと》はどう来たか、恐《こわ》い姿、凄《すご》い者の路を遮《さえ
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