《てん》の色、神霊秘密《しんれいひみつ》の気《き》を籠《こ》めて、薄紫《うすむらさき》と見るばかり。
「その美女ヶ原までどのくらいあるね、日の暮れない中《うち》行《ゆ》かれるでしょうか。」
「否《いいえ》、こう桜が散って参りますから、直《じき》でございます。私も其処《そこ》まで、お供いたしますが、今日こそ貴方《あなた》のようなお連《つれ》がございますけれど、平時《いつも》は一人で参りますから、日一杯《ひいっぱい》に里まで帰るのでございます。」
「日一杯?」と思いも寄らぬ状《さま》。
「どんなにまた遠い処《ところ》のように、樵夫《きこり》がお教え申したのでござんすえ。」
「何、樵夫に聞くまでもないです。私に心覚《こころおぼえ》が丁《ちゃん》とある。先ず凡《およ》そ山の中を二日も三日も歩行《ある》かなけれゃならないですな。
 尤《もっと》も上《のぼ》りは大抵《たいてい》どのくらいと、そりゃ予《かね》て聞いてはいるんですが、日一杯だのもう直《じき》だの、そんなに輒《たやす》く行《ゆ》かれる処とは思わない。
 御覧なさい、こうやって、五体の満足なはいうまでもない、谷へも落ちなけりゃ、巌《いわ》にも躓《つまず》かず、衣物《きもの》に綻《ほころび》が切れようじゃなし、生爪《なまづめ》一つ剥《はが》しやしない。
 支度《したく》はして来たっても餒《ひもじ》い思いもせず、その蒼《あお》い花の咲く草を捜さなけりゃならんほど渇《かわ》く思いをするでもなし、勿論《もちろん》この先どんな難儀に逢おうも知れんが、それだって、花を取りに里から日帰《ひがえり》をするという、姉《ねえ》さんと一所《いっしょ》に行《ゆ》くんだ、急に日が暮れて闇になろうとも思われないが、全くこれぎりで、一足《ひとあし》ずつ出さえすりゃ、美女ヶ原になりますか。」
「ええ、訳《わけ》はございません、貴方《あなた》、そんなに可恐《おそろしい》処《ところ》と御存じで、その上、お薬を採りに入らしったのでございますか。」
 言下《ごんか》に、
「実際|命懸《いのちがけ》で来ました。」と思い入《い》って答えると、女はしめやかに、
「それでは、よくよくの事でおあんなさいましょうねえ。
 でも何もそんな難《むずか》しい御山《おやま》ではありません。但《ただ》此処《ここ》は霊山《れいざん》とか申す事、酒を覆《こぼ》したり、竹の皮を打棄《うっちゃ》ったりする処《ところ》ではないのでございます。まあ、難有《ありがた》いお寺の庭、お宮の境内《けいだい》、上《うえ》つ方《がた》の御門《ごもん》の内のような、歩けば石一つありませんでも、何となく謹《つつし》みませんとなりませんばかりなのでございます。そして貴方《あなた》は、美女ヶ原にお心覚えの草があって、其処《そこ》までお越し遊ばすに、二日も三日もお懸《かか》りなさらねばなりませんような気がすると仰有《おっしゃ》いますが、何時《いつ》か一度お上《のぼ》り遊ばした事がございますか。」
「一度あるです。」
「まあ。」
「確《たしか》に美女ヶ原というそれでしょうな、何でも躑躅《つつじ》や椿《つばき》、菊も藤も、原《はら》一面に咲いていたと覚えています。けれども土地の名どころじゃない、方角さえ、何処《どこ》が何だか全然《まるで》夢中。
 今だってやっぱり、私は同一《おなじ》この国の者なんですが、その時は何為《なぜ》か家を出て一月|余《あまり》、山へ入って、かれこれ、何でも生れてから死ぬまでの半分は※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》って、漸々《ようよう》其処《そこ》を見たように思うですが。」
 高坂は語りつつも、長途《ちょうと》に苦《くるし》み、雨露《あめつゆ》に曝《さら》された当時を思い起すに付け、今も、気弱り、神《しん》疲れて、ここに深山《みやま》に塵《ちり》一つ、心に懸《かか》らぬ折ながら、なおかつ垂々《たらたら》と背《そびら》に汗。
 糸のような一条路《ひとすじみち》、背後《うしろ》へ声を運ぶのに、力を要した所為《せい》もあり、薬王品《やくおうほん》を胸に抱《いだ》き、杖を持った手に帽《ぼう》を脱ぐと、清き額《ひたい》を拭《ぬぐ》うのであった。
 それと見る目も敏《さと》く、
「もし、御案内がてら、あの、私がお前《さき》へ参りましょう。どうぞ、その方がお話も承《うけたまわ》りようございますから。」
 一議《いちぎ》に及ばず、草鞋《わらじ》を上げて、道を左へ片避《かたよ》けた、足の底へ、草の根が柔《やわらか》に、葉末《はずえ》は脛《はぎ》を隠したが、裾《すそ》を引く荊《いばら》もなく、天地《てんち》閑《かん》に、虫の羽音《はおと》も聞えぬ。

       三

「御免なさいまし。」
 と花売《は
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