いなる事がらといえども一つとしてくだんの巡査の視線以外に免《のが》るることを得ざりしなり。
しかも渠は交番を出《い》でて、路に一個の老車夫を叱責《しっせき》し、しかしてのちこのところに来たれるまで、ただに一回も背後《うしろ》を振り返りしことあらず。
渠は前途に向かいて着眼の鋭く、細かに、きびしきほど、背後《うしろ》には全く放心せるもののごとし。いかんとなれば背後はすでにいったんわが眼《まなこ》に検察して、異状なしと認めてこれを放免したるものなればなり。
兇徒《きょうと》あり、白刃を揮《ふる》いて背後《うしろ》より渠を刺さんか、巡査はその呼吸《いき》の根の留まらんまでは、背後《うしろ》に人あるということに、思いいたることはなかるべし。他なし、渠はおのが眼《まなこ》の観察の一度達したるところには、たとい藕糸《ぐうし》の孔中といえども一点の懸念をだに遺《のこ》しおかざるを信ずるによれり。
ゆえに渠は泰然と威厳を存して、他意なく、懸念なく、悠々《ゆうゆう》としてただ前途のみを志すを得《う》るなりけり。
その靴《くつ》は霜のいと夜深きに、空谷を鳴らして遠く跫音《きょうおん》を送りつつ、
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