ってならないのだ。憎いやつなら何もおれが仕返しをする価値《ねうち》はないのよ。だからな、食うことも衣《き》ることも、なんでもおまえの好きなとおり、おりゃ衣ないでもおまえには衣せる。わがままいっぱいさしてやるが、ただあればかりはどんなにしても許さんのだからそう思え。おれももう取る年だし、死んだあとでと思うであろうが、そううまくはさせやあしない、おれが死ぬときはきさまもいっしょだ」
 恐ろしき声をもて老人が語れるその最後の言《ことば》を聞くと斉《ひと》しく、お香はもはや忍びかねけん、力を極《きわ》めて老人が押えたる肩を振り放し、ばたばたと駈け出《い》だして、あわやと見る間に堀端《ほりばた》の土手へひたりと飛び乗りたり。コハ身を投ぐる! と老人は狼狽《うろた》えて、引き戻さんと飛び行きしが、酔眼に足場をあやまり、身を横ざまに霜を辷《すべ》りて、水にざんぶと落ち込みたり。
 このとき疾《はや》く救護のために一躍して馳《は》せ来たれる、八田巡査を見るよりも、
「義さん」と呼吸《いき》せわしく、お香は一声呼び懸《か》けて、巡査の胸に額《ひたい》を埋《うず》めわれをも人をも忘れしごとく、ひしとばかり
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