立ち留まりて、しばらくして、たじたじとあとに退《さが》りぬ。巡査はこのところを避けんとせしなり。されども渠は退かざりき。造次《ぞうじ》の間八田巡査は、木像のごとく突っ立ちぬ。さらに冷然として一定の足並みをもて粛々と歩み出だせり。ああ、恋は命なり。間接にわれをして死せしめんとする老人の談話《はなし》を聞くことの、いかに巡査には絶痛なりしよ。ひとたび歩を急にせんか、八田は疾《とく》に渠らを通り越し得たりしならん、あるいはことさらに歩をゆるうせんか、眼界の外に渠らを送遣し得たりしならん。されども渠はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲がりの道を巡り、再び駐在所に帰るまで、歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回《うかい》し、あるいは疾走し、緩歩し、立停《りゅうてい》するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑《いさぎよ》しとせざりしところなり。
六
老人はなお女の耳を捉《とら》えて放たず、負われ懸くるがごとくにして歩行《ある》きながら、
「お香、こうは謂うもののな、おれはおまえが憎かあない、死んだ母親にそっくりでかわいく
前へ
次へ
全27ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング