ました、ねえ。
晃 (百合を背後《うしろ》に庇《かば》い、利鎌《とがま》を逆手《さかて》に、大勢を睨《ね》めつけながら、落着いたる声にて)ああ、夜叉ヶ池へ――山路《やまみち》、三の一ばかり上った処で、峰裏|幽《かすか》に、遠く池ある処と思うあたりで、小児《こども》をあやす、守唄の声が聞えた。……唄の声がこの月に、白玉《しらたま》の露を繋《つな》いで、蓬《おどろ》の草も綾《あや》を織って、目に蒼《あお》く映ったと思え。……伴侶《つれ》が非常に感に打たれた。――山沢には三歳《みッつ》になる小児がある。……里心が出て堪えられん。月の夜路《よみち》に深山路《みやまじ》かけて、知らない他国に※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うことはまた、来る年の首途《かどで》にしよう。帰り風が颯《さっ》と吹く、と身体《からだ》も寒くなったと云う。私もしきりに胸騒ぎがする。すぐに引返《ひっかえ》して帰ったんだよ。(と穏《おだやか》に、百合に向って言い果てると、すッと立って、瓢《ひさご》を逆《さかさ》に、月を仰いで、ごッと飲む。)
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百合、のび上って、晃が紐《ひも》を押え頸《くび》に掛けたる小笠《おがさ》を取り、瓢を引く。晃はなすを、受け取って框《かまち》におく。すぐに、鎌を取ろうとする。晃、手を振って放さず、お百合、しかとその晃の鎌を持つ手に縋りいる。
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晃 帰れ、君たちア何をしている。
初雄 更《あらた》めて断るですがね、君、お気の毒だけれども、もう、村を立去ってくれたまえ。
晃 俺をこの村に置かんと云うのか。
初雄 しかりです。――御承知でもあるでしょう、また御承知がなければ、恐らく白痴《ばか》と言わんけりゃならんですが、この旱《ひでり》です、旱魃《かんばつ》です。……一滴の雨といえども、千金、むしろ万金の場合にですな。君が迷信さるる処のその鐘《つりがね》はです。一度でも鳴らさない時はすなわちその、村が湖になると云うです。湖になる……結構ですな。望む処である、です、から、して、からに、そのすなわちです。今夜からしてお撞《つ》きなさらない事にしたいのです。鐘を撞かん事になってみる日になってみると、いたしてから、その、鐘を撞くための君はですな、名は権助と云うかどうかは分からんですが、ええん!
村二三 ひやひや。(と云う。)
村四五 撞木野郎《しゅもくやろう》、丸太棒《まるたんぼう》。(と怒鳴る。)
初雄 えへん、君はこの村において、肥料《こやし》の糟《かす》にもならない、更に、あえて、しかしてその、いささかも用のない人です。故にです、故にですな、我々一統が、鐘を、お撞きになるのを、お断りを、しますと同時に、村を、お立ち去りの事を宣告するのであるです。
村二三 そうだ、そうだとも。
晃 望む処だ。……鐘を守るとも守るまいとも、勝手にしろと言わるるから、俺には約束がある……義に依《よっ》て守っていたんだ。鳴らすなと言うに、誰がすき好んで鐘を撞くか。勿論、即時にここを去る。
村四五 出て行《ゆ》け、出て行け。(と異口同音《くちぐち》。)
晃 お百合|行《ゆ》こう。――(そのいそいそ見繕いするを見て)支度が要るか、跣足《はだし》で来い。茨《いばら》の路は負《おぶ》って通る。(と手を引く。)
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お百合その袖に庇《かば》われて、大勢の前を行《ゆ》く。――忍んで様子を見たる、学円、この時|密《そっ》とその姿を顕《あらわ》す。
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管八 (悪く沈んだ声して)おいおい、おい待て。
晃 (構わず、つかつかと行く。)
管八 待て、こら!
晃 何だ。(と衝《つつ》と返す。)
管八 汝《きさま》、村のものは置いて行《ゆ》け。
晃 塵《ちり》ひとっ葉《ぱ》も持っちゃ行かんよ。
管八 その婦《おんな》は村のものだ。一所に連れて行《ゆ》く事は出来ないのだ。
晃 いや、この百合は俺の家内だ。
嘉伝次 黙りなさい。村のものじゃわい。
晃 どこのものでも差支えん、百合は来たいから一所に来る……留《とどま》りたければ留るんだ。それ見ろ、萩原に縋《すが》って離れやせん。(微笑して)置いて行《ゆ》けば百合は死のう……人は、心のままに活《い》きねばならない。お前たちどもに分るものか。さあ、行《ゆ》こう。
宅膳 (のしと進み)これこれ若いもの、無分別はためにならんぞ。……私《わし》が姪《めい》は、ただこの村のものばかりではない。一郡六ヶ村、八千の人の生命《いのち》じゃ、雨乞《あまごい》の犠牲《にえ》にしてな。それじゃに、……その犠牲の女を連れて行《ゆ》くのは、八千の人の生命を、お主《ぬし》が奪取って行《ゆ》くも同然。百合を置いて行《ゆ》かん事には、ここは一足も通されんわ。百合は八千の人の生命じゃが。……さあ、どうじゃい。
学円 しばらく、(声を掛け、お百合を中に晃と立並ぶ。)その返答は、萩原からはしにくかろう。代って私《わし》が言う。――いかにも、お百合さんは村の生命《せいめい》じゃ。それなればこそ、華冑《かちゅう》の公子、三男ではあるが、伯爵の萩原が、ただ、一人の美しさのために、一代鐘を守るではないか――既に、この人を手籠《てご》めにして、牛の背に縄目の恥辱《ちじょく》を与えた諸君に、論は無益と思うけれども、衆人|環《めぐ》り視《み》る中において、淑女の衣《ころも》を奪うて、月夜を引廻すに到っては、主、親を殺した五逆罪の極悪人を罪するにも、洋の東西にいまだかつてためしを聞かんぞ!
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そりゃあるいは雨も降ろう、黒雲《くろくも》も湧《わ》き起ろうが、それは、惨憺《さんたん》たる黒牛の背の犠牲《ぎせい》を見るに忍びないで、天道が泣かるるのじゃ。月が面《おもて》を蔽《おお》うのじゃ。天を泣かせ、光を隠して、それで諸君は活《い》きらるるか。稲は活きても人は餓《う》える、水は湧いても人は渇《かつ》える。……無法な事を仕出《しいだ》して、諸君が萩原夫婦を追うて、鐘を撞《つ》く約束を怠って、万一、地《つち》が泥海になったらどうする! 六ヶ村八千と言わるるか、その多くの生命は、諸君が自ら失うのじゃ。同じ迷信と言うなら言え。夫婦|仲睦《なかむつま》じく、一生|埋木《うもれぎ》となるまでも、鐘楼《しょうろう》を守るにおいては、自分も心を傷《きずつ》けず、何等世間に害がない。
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管八 黙れ、煩《うるさ》い。汝《うぬ》が勝手な事を言うな。
初雄 一体君は何ものですか。
学円 私《わし》か、私は萩原の親友じゃ。
宅膳 藪《やぶ》から坊主が何を吐《ぬか》す。
学円 いかにも坊主じゃ、本願寺派の坊主で、そして、文学士、京都大学の教授じゃ。山沢学円と云うものです。名告《なの》るのも恥入りますが、この国は真宗門徒信仰の淵源地《えんげんち》じゃ。諸君のなかには同じ宗門のよしみで、同情を下さる方もあろうかと思うて云います。(教員に)君は学校の先生か、同一《おなじ》教育家じゃ。他人でない、扱うてくれたまえ。(神官《かんぬし》に)貴方《あなた》も教えの道は御親類。(村長に)村長さんの声名にもお縋り申す。……(力士に)な、天下の力士は侠客《きょうかく》じゃ、男立《おとこだて》と見受けました。……何分願います、雨乞の犠牲はお許しを頼む。
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これがために一同しばらくためらう。……代議士|穴隈《あなぐま》鉱蔵、葉巻をくゆらしながら、悠々と出づ。
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鉱蔵 其奴等《そいつら》騙賊《かたり》じゃ。また、騙賊でのうても、華族が何だ、学者が何だ、糧《かて》をどうする!……命をどうする?……万事俺が引受けた。遣《や》れ、汝等《きさまら》、裸にしようが、骨を抜こうが、女郎《めろう》一人と、八千の民、誰《たれ》か鼎《かなえ》の軽重《けいちょう》を論ぜんやじゃ。雨乞を断行せい。
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力士|真先《まっさき》に、一同ばらりと立懸《たちかか》る。
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学円 私《わし》を縛《しば》れ、(と上衣《うわぎ》を脱ぎ棄て)かほど云うても肯入《ききい》れないなら止《や》むを得ん、私《わし》を縛れ、牛にのせい。
晃 (からりと鎌を棄て)いや、身代りなら俺を縛れ。さあ、八裂《やつざき》にしろ、俺は辞せん。――牛に乗せて夜叉ヶ池に連れて行《ゆ》け。犠牲《にえ》によって、降らせる雨なら、俺が竜神に談判してやる。
百合 あれ、晃さん、お客様、私が行きます、私を遣って下さいまし。
晃 ならん、生命《いのち》に掛けても女房は売らん、竜神が何だ、八千人がどうしたと! 神にも仏にも恋は売らん。お前が得心で、納得して、好んですると云っても留めるんだ。
鉱蔵 (ふわふわと軽く詰め寄り、コツコツと杖を叩いて)血迷うな! たわけも可《い》い加減にしろ、女も女だ。湯屋へはどうして入る?……うむ、馬鹿が!(と高笑いして)君たち、おい、いやしくも国のためには、妻子を刺殺《さしころ》して、戦争に出るというが、男児たるものの本分じゃ。且つ我が国の精神じゃ、すなわち武士道じゃ。人を救い、村を救うは、国家のために尽《つく》すのじゃ。我が国のために尽すのじゃ。国のために尽すのに、一晩|媽々《かかあ》を牛にのせるのが、さほどまで情《なさけ》ないか。洟垂《はなったら》しが、俺は料簡《りょうけん》が広いから可《い》いが、気の早いものは国賊だと思うぞ、汝《きさま》。俺なぞは、鉱蔵は、村はもとよりここに居るただこの人民蒼生《じんみんそうせい》のためというにも、何時《なんどき》でも生命を棄てるぞ。
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時に村人は敬礼し、村長は頤《あご》を撫《な》で、有志は得意を表す。
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晃 死ね!(と云うまま落したる利鎌《とがま》を取ってきっと突《つき》つく。)
鉱蔵 わあ。(と思わず退《さが》る。)
晃 死ね、死ね、死ね、民のために汝《きさま》死ね。見事に死んだら、俺も死んで、それから百合を渡してやる。死ね、死《しな》ないか。
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とじりりと寄るたび、鉱蔵ひょこひょこと退る。お百合、晃の手に取縋ると、縋られた手を震わしながら、
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し、しからずんば決闘せい。
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一同その詰寄るを、わッわと遮り留《とど》む。
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傍《そば》へ寄るな、口が臭いや、こいつらも! 汝等《きさまら》は、その成金《なりきん》に買われたな。これ、昔も同じ事があった。白雪、白雪という、この里の処女だ。権勢と迫害で、可厭《いや》がるものを無理に捉《とら》えて、裸体《はだか》を牛に縛《いまし》めて、夜叉ヶ池へ追上せた。……処女は、口惜《くや》しさ、恥かしさ、無念さに、生きて里へ帰るまい。其方《そなた》も、……其方も……追っては屠《ほふ》らるる。同じ生命《いのち》を、我に与えよ、と鼻頭《はなづら》を撫でて牛に言い含め、終夜《よもすがら》芝を刈りためたを、その牛の背に山に積んで、石を合せて火を放つと、鞭《むち》を当てるまでもない。白い手を挙げ、衝《つ》とさして、麓《ふもと》の里を教うるや否や、牛は雷《いかずち》のごとく舞下《まいさが》って、片端《かたっぱし》から村を焼いた。……麓にぱっと塵《ちり》のような赤い焔《ほのお》が立つのを見て、笑《えみ》を含んで、白雪は夜叉ヶ池に身を沈めたというのを聞かぬか。忘れたか。汝等。おれたちに指でも指してみろ、雨は降らいで、鹿見村は焔になろう。不埒《ふらち》な奴等だ。
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鉱蔵 世迷言《よまいご
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