夜叉ヶ池
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)三国岳《みくにだけ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)この時|白髪《しらが》の
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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場所 越前国大野郡鹿見村琴弾谷
時 現代。――盛夏
人名 萩原晃(鐘楼守)
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百合(娘)
山沢学円(文学士)
白雪姫(夜叉ヶ池の主)
湯尾峠の万年姥(眷属)
白男の鯉七
大蟹五郎
木の芽峠の山椿
鯖江太郎
鯖波次郎
虎杖の入道
十三塚の骨
夥多の影法師
黒和尚鯰入(剣ヶ峰の使者)
与十(鹿見村百姓)
その他大勢
鹿見宅膳(神官)
権藤管八(村会議員)
斎田初雄(小学教師)
畑上嘉伝次(村長)
伝吉(博徒)
小烏風呂助(小相撲)
穴隈鉱蔵(県の代議士)
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劇中名をいうもの。――(白山剣ヶ峰、千蛇ヶ池の公達)
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三国岳《みくにだけ》の麓《ふもと》の里に、暮六《くれむ》つの鐘きこゆ。――幕を開く。
萩原晃《はぎわらあきら》この時|白髪《しらが》のつくり、鐘楼《しょうろう》の上に立ちて夕陽《せきよう》を望みつつあり。鐘楼は柱に蔦《つた》からまり、高き石段に苔《こけ》蒸し、棟には草生ゆ。晃やがて徐《おもむろ》に段を下りて、清水に米を磨《と》ぐお百合《ゆり》の背後に行《ゆ》く。
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晃 水は、美しい。いつ見ても……美しいな。
百合 ええ。
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その水の岸に菖蒲《あやめ》あり二三輪小さき花咲く。
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晃 綺麗《きれい》な水だよ。(微笑《ほほえ》む。)
百合 (白髪の鬢《びん》に手を当てて)でも、白いのでございますもの。
晃 そりゃ、米を磨いでいるからさ。……(框《かまち》の縁に腰を掛く)お勝手働き御苦労、せっかくのお手を水仕事で台なしは恐多い、ちとお手伝いと行こうかな。
百合 可《よ》うございますよ。
晃 いや……お手伝いという処だが、お百合さんのそうした処は、咲残った菖蒲を透いて、水に影が映《さ》したようでなお綺麗だ。
百合 存じません。
晃 賞《ほ》めるのに怒る奴《やつ》がありますか。
百合 おなぶり遊ばすんでございますものを。――そして旦那様《だんなさま》は、こんな台所へ出ていらっしゃるものではありません。早くお机の所へおいでなさいまし。
晃 鐘を撞《つ》く旦那はおかしい。実は権助《ごんすけ》と名を替えて、早速お飯《まんま》にありつきたい。何とも可恐《おそろし》く腹が空いて、今、鐘を撞いた撞木《しゅもく》が、杖《つえ》になれば可《い》いと思った。ところで居催促《いざいそく》という形《かた》もある。
百合 ほほほ、またお極《きま》り。……すぐお夕飯にいたしましょうねえ。
晃 手品じゃあるまいし、磨いでいる米が、飯に早変わりはしそうもないぜ。
百合 まあ、あんな事を――これは翌朝《あした》の分を仕掛けておくのでございますよ。
晃 翌朝の分――ああ、お所帯《しょたい》もち、さもあるべき事です。いや、それを聞いて安心したら、がっかりして余計空いた。
百合 何でございますねえ。……お菜《かず》も、あの、お好きな鴫焼《しぎやき》をして上げますから、おとなしくしていらっしゃいまし。お腹が空いたって、人が聞くと笑います。
晃 (縁を上る)誰に遠慮がいるものか、人が笑うのは、ね、お前。
百合 はい。
晃 お互いに朝寝の時――
百合 知りませんよ。(莞爾《にっこり》俯向《うつむ》く。)
晃 煩《うるさ》く薮蚊《やぶっか》が押寄せた。裏縁で燻《いぶ》してやろう。(納戸、背後《うしろ》むきに山を仰ぐ)……雲の峰を焼落《やきおと》した、三国ヶ岳は火のようだ。西は近江《おうみ》、北は加賀、幽《かすか》に美濃《みの》の山々峰々、数万《すまん》の松明《たいまつ》を列《つら》ねたように旱《ひでり》の焔《ほのお》で取巻いた。夜叉《やしゃ》ヶ池へも映るらしい。ちょうどその水の上あたり、宵の明星の色さえ赤い。……なかなか雨らしい影もないな。
百合 ……その竜が棲《す》む、夜叉ヶ池からお池の水が続くと申します。ここの清水も気のせいやら、流《ながれ》が沢山《たんと》痩《や》せました。このごろは村方で大騒ぎをしています。……暑さは強し……貴方《あなた》、お身体《からだ》に触《さわ》りはしますまいかと、――めしあがりものの不自由な片山里は心細い。私はそれが心配でなりません。
晃 流《ながれ》が細ったって構うものか。お前こそ、その上夏痩せをしないが可《い》い。お百合さん、その夕顔の花に、ちょっと手を触ってみないか。
百合 はい、どういたすのでございますか。
晃 花にも葉にも露があろうね。
百合 ああ冷い。水の手にも涼しいほど、しっとり花が濡れましたよ。
晃 世間の人には金が要ろう、田地も要ろう、雨もなければなるまいが、我々二人|活《い》きるには、百日照っても乾きはしない。その、露があれば沢山なんだ。(戸外《おもて》に向える障子を閉《とざ》す。)
百合 貴方、お暑うございましょう。開けておおきなさいましても、もう、そちこち人も通りますまい。
晃 何、更《あらたま》って、そんな心配をするものか。……晩方|閉込《とじこ》んで一燻《ひといぶ》し燻しておくと、蚊が大分楽になるよ。
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時に蚊遣《かやり》の煙なびく、
学円。日に焼けたるパナマ帽子、背広の服、落着《おちつき》のある人体《じんてい》なり。風呂敷包を斜《はす》に背《しょ》い、脚絆草鞋穿《きゃはんわらじばき》、杖《ステッキ》づくりの洋傘《こうもり》をついて、鐘楼の下に出づ。打仰ぎ鐘を眺め、
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学円 今朝、明六《あけむ》つの橋を渡って、ここで暮六つの鐘を聞いた。……
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お百合は笊《ざる》に米をうつす。
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学円 やあ、お精が出ます。(と声を掛く。)
百合 はい。(見向く。)
学円 途中、畷《なわて》の竹藪《たけやぶ》の処へ出て……暗くなった処で、今しがた聞きました。時を打ったはこの鐘でしょうな。
百合 さようでございます。
学円 音も尊い!……立派な鐘じゃ。鐘楼《つりがねどう》へ上《あが》ってみても差支えはありませんか。
百合 (笊《ざる》を抱えて立つ)ええ、大事ござんせん。けれども貴客《あなた》、御串戯《ごじょうだん》に、お杖やなんぞでお敲《たた》き遊ばしては不可《いけ》ません。
学円 西瓜《すいか》を買うのではありません。決して敲いてはみますまい。(笑う。)
百合 御串戯おっしゃいます。……いいえ、悪戯《いたずら》を遊ばすようなお方とは、お見受け申しはしませんけれど、その鐘は、明六つと、暮六つと、夜中|丑満《うしみつ》に一度、――三度のほかは鳴らさない事になっておりますから、失礼とは存じましたが、ちょっと申上げたのでございます。さあ、どうぞ御遠慮なく、上って御覧なさいまし。(夕顔の垣根について入《いら》んとす。)
学円 ああ、ちょっと……お待ち下さい。鐘を見ようと思いますが、ふと言《ことば》を交わしたを御縁に、余り不躾《ぶしつけ》がましい事じゃが、茶なりと湯なりと、一杯お振舞い下さらんか。
百合 お易い事でございます。さあ、貴客《あなた》、これへお掛けなさいまし。
学円 御免下さいよ。
百合 真《まこと》に見苦しゅうございます。
学円 これは――お寺の庫裡《くり》とも見受ません。御本堂は離れていますか。
百合 いいえ、もう昔、焼けたと申しまして、以前から、寺はないのでございます。
学円 鐘ばかり……
百合 はい。
学円 鐘ばかり……成程、ところで西瓜の一件じゃ。(帽子を脱ぐ、ほとんど剃髪《ていはつ》したるごとき一分刈《いちぶがり》の額を撫《な》でて)や、西瓜と云えば、内に甜瓜《まくわうり》でもありますまいか。――茶店でもない様子――(見廻す。)
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片山家《かたやまが》の暮れ行《ゆ》く風情、茅屋《かやや》の低き納戸の障子に灯影《ほかげ》映る。
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学円 この上、晩飯の御難題は言出しませんが、いかんとも腹が空いた。
百合 ほほ。(と打笑《うちえ》み)筧《かけひ》の下に、梨《ありのみ》が冷《ひや》してござんす、上げましょう。(と夕顔の蔭に立廻る。)
学円 (がぶがぶと茶を呑《の》み、衣兜《ポケット》から扇子を取って、煽《あお》いだのを、と翳《かざ》して見つつ)おお、咲きました。貴女《あなた》の顔を見るように。
百合 ええ?(聞返す。)
学円 いや、髪の色を見るように。
百合 もう、年をとりますと、花どころではございません。早く干瓢《かんぴょう》にでもなりますれば、……とそればかりを待っております。
学円 小刀《ナイフ》をこれへお遣わし……私《わし》が剥《む》きます。――お世話を掛けてはかえって気遣いな。どれどれ……旅の事欠け、不器用ながら、梨《なし》の皮ぐらいは、うまく剥きます。おおおお氷よりよく冷えた。玉を削るとはこの事じゃろう。
百合 旅を遊ばす御様子にお見受け申します……貴客《あなた》は、どれから、どれへお越しなさいますえ?
学円 さて名告《なの》りを揚げて、何の峠を越すと云うでもありません。御覧の通り、学校に勤めるもので、暑中休暇に見物学問という処を、遣《や》って歩行《ある》く……もっとも、帰途《かえりみち》です。――涼しくば木の芽峠、音に聞こえた中の河内《かわち》か、(廂《ひさし》はずれに山見る眉)峰の茶店《ちゃや》に茶汲女《ちゃくみおんな》が赤前垂《あかまえだれ》というのが事実なら、疱瘡《ほうそう》の神の建場《たてば》でも差支えん。湯の尾峠を越そうとも思います。――落着く前《さき》は京都ですわ。
百合 お泊りは? 貴客《あなた》、今晩の。
学円 ああ、うっかり泊りなぞお聞きなさらぬが可《い》い。言尻《ことばじり》に着いて、宿の御無心申さんとも限らんぞ。はははは、いや、串戯《じょうだん》じゃ。御心配には及ばんが、何と、その湯の尾峠の茶汲女は、今でも赤前垂じゃろうかね。
百合 山また山の峠の中に、嘘のようにもお思いなさいましょうが、まったくだと申します。
学円 谷の姫百合も緋色《ひいろ》に咲けば、何もそれに不思議はない。が、この通り、山ばかり、重《かさな》り累《かさな》る、あの、巓《いただき》を思うにつけて、……夕焼雲が、めらめらと巌《いわお》に焼込《やけこ》むようにも見える。こりゃ、赤前垂より、雪女郎で凄《すご》うても、中の河内が可《い》いかも分らん。何にしろ、暑い事じゃね。――やっとここで呼吸《いき》をついた。
百合 里では人死《ひとじに》もありますッて……酷《ひど》い旱《ひでり》でございますもの。
学円 今朝から難行苦行《なんぎょうくぎょう》の体《てい》で、暑さに八九里悩みましたが――可恐《おそろ》しい事には、水らしい水というのを、ここに来てはじめて見ました。これは清水と見えます。
百合 裏の崕《がけ》から湧《わ》きますのを、筧《かけひ》にうけて落します……細い流《ながれ》でございますが、石に当って、りんりんと佳《い》い音《ね》がしますので、この谷を、あの琴弾谷《ことひきだに》と申します。貴客、それは、おいしい冷い清水。……一杯汲んで差上げましょうか。
学円 何が今まで我慢が出来よう、鐘堂《つりがねどう》も知らない前に、この美《うつくし》い水を見ると、逆蜻蛉《さかとんぼ》で口をつけて、手で引掴《ひッ
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