つか》んでがぶがぶと。
百合 まあ、私はどうしましょう、知らずにお米を磨《と》ぎました。
学円 いや、しらげ水は菖蒲《あやめ》の絞《しぼり》、夕顔の花の化粧になったと見えて、下流の水はやっぱり水晶。ささ濁りもしなかった。が、村里一統、飲む水にも困るらしく見受けたに、ここの源《みなもと》まで来ないのは格別、流れを汲取るものもなかったように思う……何ぞ仔細《しさい》のある事じゃろうか。
百合 あの、湧きますのは、裏の崕《がけ》でござんすけれど。
学円 はあ、はあ。……
百合 水の源《もと》はこの山奥に、夜叉ヶ池と申します。凄《すご》い大池がございます。その水底《みなそこ》には竜が棲《す》む、そこへ通うと云いまして――毒があると可恐《こわ》がります。――もう薄暗くて見えますまいけれども、その貴客《あなた》、流《ながれ》の石には、水がかかって、紫だの、緑だの、口紅ほどな小粒も交《まじ》って、それは綺麗でございますのを、お池の主の眷属《けんぞく》の鱗《うろこ》がこぼれたなんのッて、気味が悪いと申すんでございますから。……
学円 綺麗な石が毒蛇の鱗? や、がぶがぶと、豪《えら》いことを遣《や》ってしもうた。(と扇子をもって胸を打つ。)
百合 まあ、(と微笑《ほほえ》み)私どもがこの年まで朝夕飲んで何ともない、それをあの、人は疑うのでございます。
学円 もっとも、もっとも。ものを疑うのは人間の習いですよ。私《わし》は今のお言《ことば》で、決して心配はしますまい。現に朝夕飲んでおらるる、――この年紀《とし》まで――(と打ち瞻《まも》り)お幾歳《いくつ》じゃな。
百合 …………
学円 まあさ、失礼じゃが、お幾歳です?
百合 御免なさいまし、……忘れました。……
学円 ははは、俚言《ことわざ》にも、婦人に対して、貴女はいつ死ぬとは問うても可《い》い。が、いつ生れた、とは聞くな――とある。これは無遠慮に出過ぎました。……お幾歳じゃと年紀《とし》は尋ねますまい。時に幾干《いくら》ですか。
百合 幾干かとおっしゃって?
学円 代価じゃ。
百合 あの、お代、何の?……お宝……ま、滅相《めっそう》な。お茶代なぞ頂くのではないのでござんす。
学円 茶も茶じゃが、いやあこれは、髯《ひげ》のようにもじゃもじゃ[#「もじゃもじゃ」に傍点]と聞えておかしい。茶も勿論、梨を十分に頂いた。お商売でのうても無代価では心苦しい。ずばりと余計なら黙っても差置きますが、旅空なり、御覧の通りの風体《ふうてい》。ちゃんと云うて取って下さい。
百合 そうまでお気が済みませんなら、少々お代を頂きましょうか。
学円 勿論ともな。
百合 でも、あの、お代とさえ申しますもの、お宝には限りません。そのかわり、短いのでも可《よ》うござんす、お談話《はなし》を一つ、お聞かせなすって下さいましな。
学円 談話をせい、……談話とは?
百合 方々旅を遊ばした、面白い、珍しい、お話しでございます。
学円 その談話を?
百合 はい、お代のかわりに頂きます。貴客《あなた》には限りませず、薬売の衆、行者《ぎょうじゃ》、巡礼、この村里の人たちにも、お間に合うものがござんして、そのお代をと云う方には、誰方《どなた》にも、お談話を一条《ひとつ》ずつ伺います。沢山《たんと》お聞かせ下さいますと、お泊め申しもするのでござんす。
学円 むむ、これこそ談話じゃ。(と小膝《こひざ》を拍《うっ》て)面白い。話しましょう。……が、さて談話というて、差当り――お茶代になるのじゃからって、長崎から強飯《こわめし》でもあるまいな。や、思出した。しかもこの越前《えちぜん》じゃ。
晃 (細く障子を開き差覗《さしのぞ》く。)
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時に小机に向いたり。双紙を開き、筆を取りて、客の物語る所をかき取らんとしたるなるが、学円と双方、ふと顔を合せて、何とかしけん、燈火《ともしび》をふっと消す。
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百合 どんなお話、もし、貴客《あなた》。
学円 ……時にここで話すのを、貴女のほかに聞く人がありますかね。
百合 いいえ、外《ほか》にはお月様ばかりでござんす。
学円 道理こそ燈《あかり》が消えて、ああ、蚊遣《かやり》の煙で、よくは見えぬが、……納戸に月が射《さ》すらしい。――お待ちなさい。今、言いかけた越前の話というのは、縁の下で牡丹餅《ぼたもち》が化けたのです。たとえば、ここで私《わし》がものを云うと、その通り、縁の下で口真似をする奴《やつ》がある。村中が寄って集《たか》って、口真似するは何ものじゃ。狐か、と聞くと、違う。と答える。狸か、違う、獺《かわうそ》か、違う、魔か、天狗《てんぐ》か、違う、違う。……しまいに牡丹餅か、と尋ねた時、おうと云って消え失《う》せたという――その話をする気であったが、……まだ外に、月が聞くと言わるるから、出直して、別の談話《はなし》をする気になった。お聞きなさい。これは現在|一昨年《おととし》の夏――
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一人、私《わし》の親友に、何かかねて志す……国々に伝わった面白い、また異《かわ》った、不思議な物語を集めてみたい。日本中残らずとは思うが、この夏は、山深い北国《ほっこく》筋の、谷を渡り、峰を伝って尋ねよう、と夏休みに東京を出ました。――それっきり、行方が知れず、音沙汰《おとさた》なし。親兄弟もある人物、出来る限り、手を尽くして捜したが、皆目|跡形《あとかた》が分らんから、われわれ友だちの間にも、最早《もは》や世にない、死んだものと断念《あきら》めて、都を出た日を命日にする始末。いや、一時は新聞沙汰、世間で豪《えら》い騒ぎをした。……
自殺か、怪我《けが》か、変死かと、果敢《はか》ない事に、寄ると触ると、袂《たもと》を絞って言い交わすぞ! あとを隠すにも、死ぬのにも、何の理由もない男じゃに、貴女、世間には変った事がありましょうな。……
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百合 ああ、貴客《あなた》、貴客、難有《ありがと》う存じます。……ほんとうに難有う存じました。(とにべなく言う。)
学円 そんなに礼を云うて、茶代のかわりになるのですかい。
百合 もう沢山でございます。
学円 それでは面白かったのじゃね。
百合 ……おもしろいのは、前の牡丹餅の化けた方、あとのは沢山でございます。
学円 さて談話《はなし》はこれからなんじゃ、今のはほんの前提《まえおき》ですが。
百合 どうぞ、……結構でございますから、……そして貴客、もう暗くなります、お宿をお取り遊ばすにも御不自由でございましょうから。……
学円 いやいや、談話の模様では、宿をする事もあると言われた。私《わし》も一つ泊めて下さい、――この談話は実《み》がありますから。
百合 先刻《さっき》は、貴客、女の口から泊りの事なぞ聞くんじゃない。……その言《ことば》について、宿の無心でもされたらどうするとおっしゃって。……もう、清い涼《すずし》いお方だと思いましたものを、……女ばかり居る処で、宿貸せなぞと、そんな事、……もう、私は気味が悪い。
学円 気味が悪いな? 牡丹餅の化けたのではないですが。
百合 こんな山家は、お化《ばけ》より、都の人が可恐《こお》うござんす、……さ、貴客どうぞ。
学円 これは、押出されるは酷《ひど》い。(不承々々に立つ。)
百合 (続いて出で、押遣《おしや》るばかりに)どうぞ、お立ち下さいまし。
学円 婦人ばかりじゃ、ともこうも言われぬか。鉢の木ではないのじゃが、蚊に焚《た》く柴もあるものを、……常世《つねよ》の宿なら、こう情《なさけ》なくは扱うまい。……雪の降らぬがせめてもじゃ。
百合 真夏土用の百日|旱《ひでり》に、たとい雪が降ろうとも、……(と立ちながら、納戸の方を熟《じっ》と視《み》て、学円に瞳を返す。)御機嫌よう。
学円 失礼します。
晃 (衝《つ》と蚊遣《かやり》の中に姿を顕《あらわ》し)山沢、山沢。(ときっぱり呼ぶ。)
学円 おい、萩原、萩原か。
百合 あれ、貴方《あなた》。(と走り寄って、出足を留めるように、膝を突き手に晃の胸を圧《おさ》える。)
晃 帰りやしない、大丈夫、大丈夫。(と低声《こごえ》に云って)何とも言いようがない、山沢、まあ――まあ、こちらへ。
学円 私《わし》も何とも言いようが無い。十に九ツ君だろうと、今ね、顔を見た時、また先刻《さっき》からの様子でもそう思うた、けれども、余り思掛けなし――(引返して框《かまち》に来《きた》り)第一、その頭はどうしたい。
晃 頭もどうかしていると思って、まあ、許して上ってくれ。
学円 埃《ほこり》ばかりじゃ、失敬するぞ、(と足を拭《ふ》いたなりで座に入る)いや、その頭も頭じゃが、白髪はどうじゃ、白髪はよ?……
晃 これか、谷底に棲《す》めばといって、大蛇《うわばみ》に呑まれた次第《わけ》ではない、こいつは仮髪《かつら》だ。(脱いで棄てる。)
学円 ははあ……(とお百合を密《そっ》と見て)勿論じゃな、その何も……
晃 こりゃ、百合と云う。
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お百合、座に直った晃の膝に、そのまま俯伏《うっぷ》して縋《すが》っている。
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学円 お百合さんか。細君も……何、奥方も……
晃 泣く奴があるか、涙を拭いて、整然《ちゃん》として、御挨拶《ごあいさつ》しな。
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と言ううちに、極《きま》り悪そうに、お百合は衝《つ》と納戸へかくれる。
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晃 君に背中を敲《たた》かれて、僕の夢が覚めた処で、東京に帰るかって憂慮《きづか》いなんです。
学円 (お百合の優しさに、涙もろく、ほろりとしながら)いや、私《わし》の顔を見たぐらいで、萩原――この夢は覚めんじゃろう。……何、いい夢なら、あえて覚めるには及ばんのじゃ……しかし萩原、夢の裡《うち》にも忘れまいが、東京の君の内では親御はじめ、
晃 むむ。
学円 君の事で、多少、それは、寿命は縮められたか分らんが、皆まず御無事じゃ。
晃 ああ、そうか。難有《ありがた》い。
学円 私《わし》に礼には及ばない。
晃 実に済まん!
学円 さてこれはどうしたわけじゃ。
晃 夢だと思って聞いてくれ。
学円 勿論、夢だと思うておる。……
晃 委《くわ》しい事は、夜すがらにも話すとして、知ってる通り……僕は、それ諸国の物語を聞こうと思って、北国筋を歩行《ある》いたんだ。ところが、自身……僕、そのものが一条《ひとくだり》の物語になった訳だ。――魔法つかいは山を取って海に移す、人間を樹にもする、石にもする、石を取って木《こ》の葉にもする。木の葉を蛙《かえる》にもするという、……君もここへ来たばかりで、もの語《かたり》の中の人になったろう……僕はもう一層、その上を、物語、そのものになったんだ。
学円 薄気味の悪い事を云うな。では、君の細君は、……(云いつつ憚《はばか》る。)
晃 (納戸を振向く)衣服《きもの》でも着換えるか、髪など撫《なで》つけているだろう。……襖《ふすま》一重だから、背戸へ出た。……
学円 (伸上り納戸越に透かして見て)おい、水があるか、蘆《あし》の葉の前に、櫛《くし》にも月の光が射《さ》して、仮髪《かつら》をはずした髪の艶《つや》、雪国と聞くせいか、まだ消残って白いように、襟脚、脊筋も透通る。……凄《すご》いまで美しいが、……何か、細君は魔法つかいか。
晃 可哀想《かわいそう》な事を言え、まさか。
学円 ふん。
晃 この土地、この里――この琴弾谷が、一個《ひとつ》の魔法つかいだと云うんだよ。――
山沢、君は、この山奥の、夜叉ヶ池というのを聞いたか。
学円 聞いた。しかもその池を見ようと思って、今庄《いまじょう》駅から五里ばかり、わざわざここまで入込《いりこ》んだのじゃ。
晃 僕も一昨年《おととし》、その池を見ようと思って、ただ一人、この谷へ入った
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