皆が、あの鐘、取って落して、微塵《みじん》になるまで砕いておしまい。
姥 ええええ仰せなればと云うて、いずれも必ずお動きあるな。(眼《まなこ》を光らし、姫を瞻《みつ》めて)まだそのようなわやくをおっしゃる。……身うちの衆をお召出し、お言葉がござりましては、わやくが、わやくになりませぬ。天の神々、きこえも可恐《おそれ》じゃ。……数《かず》の人間の生命《いのち》を断つ事、きっとおたしなみなさりませい。
白雪 人の生命のどうなろうと、それを私が知る事か!……恋には我身の生命も要らぬ。……姥、堪忍して行《ゆ》かしておくれ。
姥 ああ、お最惜《いとし》い。が、なりますまい。……もう多年《しばらく》御辛抱なさりますと、三十年、五十年とは申しますまい。今の世は仏の末法、聖《ひじり》の澆季《ぎょうき》、盟誓《ちかい》も約束も最早や忘れておりまする。やッと信仰を繋《つな》ぎますのも、あの鐘を、鳥の啄《つつ》いた蔓葛《つたかずら》で釣《つる》しましたようなもの、鎖も絆《きずな》も切れますのは、まのあたりでござります。それまでお堪《こら》えなさりまし。
白雪 あんな気の長い事ばかり。あこがれ慕う心には、冥土《よみじ》の関を据えたとて、夜《よ》のあくるのも待たりょうか。可《よ》し、可し、衆《みな》が肯《き》かずば私が自分で。(と気が入る。)
椿 あれ、お姫様。
姥 これは何となされます……取棄てて大事ない鐘なら、お前様のお手は待たぬ……身内に仰せまでもない。何、唐銅《からかね》の八千貫、こう痩《や》せさらぼえた姥が腕でも、指で挟んで棄てましょうが、重いは義理でござりまするもの。
白雪 義理や掟《おきて》は、人間の勝手ずく、我と我が身をいましめの縄よ。……鬼、畜生、夜叉、悪鬼、毒蛇と言わるる私が身に、袖とて、褄《つま》とて、恋路を塞《ふさ》いで、遮る雲の一重《ひとえ》もない!……先祖は先祖よ、親は親、お約束なり、盟誓《ちかい》なり、それは都合で遊ばした。人間とても年が経《た》てば、ないがしろにする約束を、一呼吸《ひといき》早く私が破るに、何に憚《はばか》る事がある! ああ、恋しい人のふみを抱いて、私は心も悩乱した、姥、許して!
姥 成程、お気が乱れましたな。朝《あけ》六つ暮六つただ一度、今宵この丑満一つも、人間が怠れば、その時こそは瞬く間《ま》も待ちませぬ。お前様を、この姥がおぶい申して、お靴に雲もつけますまい。人は死のうと、溺《おぼ》れようと、峰は崩れよ、麓《ふもと》は埋れよ。剣ヶ峰まで、ただ一飛び。……この鐘を撞《つ》く間《うち》に、盟誓をお破り遊ばすと、諸神、諸仏が即座のお祟《たた》り、それを何となされます!
鯉七 当国には、板取《いたどり》、帰《かえる》、九頭竜《くずりゅう》の流《ながれ》を合せて、日野川の大河。
蟹五郎 美濃の国には、名だたる揖斐《いび》川。
姥 二個《ふたつ》の川の御支配遊ばす。
椿 百万石のお姫様。
姥 我ままは……
一同 相成りませぬ。
姥 お身体《からだ》。
一同 大事にござります。
白雪 ええ、煩《うるさ》いな、お前たち。義理も仁義も心得て、長生《ながいき》したくば勝手におし。……生命《いのち》のために恋は棄てない。お退《ど》き、お退き。
[#ここから2字下げ]
一同、入乱れて、遮り留《とど》むるを、振払い、掻《か》い潜《くぐ》って、果《はて》は真中《まんなか》に取籠《とりこ》められる。
[#ここから1字下げ]
お退きというに、え……
[#ここから2字下げ]
とじれて、鉄杖《てつじょう》を抜けば、白銀《しろがね》の色、月に輝き、一同は、はッと退《の》く。姫、するすると寄り、颯《さっ》と石段を駈上《かけのぼ》り、柱に縋《すが》って屹《きっ》と鐘を――
[#ここから1字下げ]
諸神、諸仏は知らぬ事、天の御罰《ごばち》を蒙《こうむ》っても、白雪の身よ、朝日影に、情《なさけ》の水に溶くるは嬉しい。五体は粉に砕けようと、八裂《やつざき》にされようと、恋しい人を血に染めて、燃えあこがるる魂は、幽《かすか》な蛍の光となっても、剣ヶ峰へ飛ばいでおこうか。
[#ここから2字下げ]
と晃然《こうぜん》とかざす鉄杖輝く……時に、月夜を遥《はるか》に、唄の声す。
==ねんねんよ、おころりよ、ねんねの守はどこへいた、山を越えて里へ行《いっ》た、里の土産に何貰うた、でんでん太鼓に笙《しょう》の笛==
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
白雪 (じっと聞いて、聞惚《ききほ》れて、火焔《かえん》の袂《たもと》たよたよとなる。やがて石段の下を呼んで)姥、姥、あの声は?……
姥 社《やしろ》の百合でござります。
白雪 おお、美しいお百合さんか、何をしているのだろうね。
姥 恋人の晃の留守に、人形を抱きまして、心遣《こころや》りに、子守唄をうたいまする。
白雪 恋しい人と分れている時は、うたを唄えば紛れるものかえ。
姥 おおせの通りでござります。
一同 姫様《ひいさま》、遊ばして御覧じませぬか。
白雪 思いせまって、つい忘れた。……私がこの村を沈めたら、美しい人の生命《いのち》もあるまい。鐘を撞《つ》けば仇《あだ》だけれども、(と石段を静《しずか》に下りつつ)この家《や》の二人は、嫉《ねたま》しいが、羨《うらやま》しい。姥、おとなしゅうして、あやかろうな。
姥 (はらはらと落涙して)お嬉しゅう存じまする。
白雪 (椿に)お前も唄うかい。
椿 はい、いろいろのを存じております。
鯉七 いや、お腰元衆、いろいろ知ったは結構だが、近ごろはやる==池の鯉よ、緋鯉《ひごい》よ、早く出て麩《ふ》を食え==なぞと、馬鹿にしたようなのはお唄いなさるな、失礼千万、御機嫌を損じよう。
椿 まあ……お前さんが、身勝手な。
一同 (どっと笑う。)――
白雪 人形抱いて、私も唄おう……剣ヶ峰のおつかい。
鯰入 はあ、はあ、はッ。
白雪 お返事を上げよう……一所に――椿や、文箱《ふばこ》をお預り。――衆《みな》も御苦労であった。
[#ここから2字下げ]
一同敬う。=でんでん太鼓に笙《しょう》の笛、起上り小法師《こぼし》に風車《かざぐるま》==と唄うを聞きつつ、左右に分れて、おいおいに一同入る。陰火全く消ゆ。
月あかりのみ。遠くに犬|吠《ほ》え、近く五位鷺《ごいさぎ》啼《な》く。
お百合、いきを切って、褄《つま》もはらはらと遁《に》げ帰り、小家《こや》の内に駈入《かけい》り、隠る。あとより、村長|畑上嘉伝次《はたがみかでんじ》、村の有志|権藤《ごんどう》管八、小学校教員斎田初雄、村のものともに追掛《おっか》け出づ。一方より、神官代理|鹿見宅膳《しかみたくぜん》、小力士《こりきし》、小烏風呂助《こがらすふろすけ》と、前後《あとさき》に村のもの五人ばかり、烏帽子《えぼし》、素袍《すおう》、雑式《ぞうしき》、仕丁《しちょう》の扮装《いでたち》にて、一頭の真黒《まっくろ》き大牛を率いて出づ。牛の手綱は、小力士これを取る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
村一 内へ隠れただ、内へ隠れただ。
村二 真暗《まっくら》だあ。
初雄 灯《あかり》を消したって夏の虫だに。
管八 踏込《ふんご》んで引摺出《ひきずりだ》せ。
[#ここから2字下げ]
村のもの四五人、ばらばらと跳込《おどりこ》む。内に、あれあれと言う声。雨戸ばらばらとはずるる。
真中《まんなか》に屹《きっ》となり――左右を支えて、
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
百合 何をおしだ、人の内へ。
管八 人の内も我が内もあるものかい。鹿見一郡六ヶ村。
初雄 焼土《やけつち》になろう、野原に焦《こ》げようという場合であるです。
宅膳 (ずっと出で)こりゃ、お百合、見苦しい、何をざわつく。唯今《ただいま》も、途中で言聞かした通りじゃ。汝《きさま》に白羽の矢が立ったで、否応《いやおう》はないわ。六ヶ村の水切れじゃ。米ならば五万石、八千人のために、雨乞《あまごい》の犠牲《にえ》になりましょう! 小児《こども》のうちから知ってもおろうが、絶体絶命の旱《ひでり》の時には、村第一の美女を取って裸体《はだか》に剥《む》き……
百合 ええ。(と震える。)
宅膳 黒牛の背に、鞍《くら》置かず、荒縄に縛《いまし》める。や、もっとも神妙に覚悟して乗って行《ゆ》けば縛るには及ばんてさ。……すなわち、草を分けて山の腹に引上せ、夜叉ヶ池の竜神に、この犠牲《いけにえ》を奉るじゃ。が、生命《いのち》は取らぬ。さるかわり、背に裸身《はだかみ》の美女を乗せたまま、池のほとりで牛を屠《ほふ》って、角ある頭《こうべ》と、尾を添えて、これを供える。……肉は取って、村一同|冷酒《ひやざけ》を飲んで啖《くら》えば、一天たちまち墨を流して、三日の雨が降灌《ふりそそ》ぐ。田も畠《はた》も蘇生《よみがえ》るとあるわい。昔から一度もその験《しるし》のない事はない。お百合、それだけの事じゃ。我慢して、村長閣下の前につけても御奉公申上げい。さあ、立とう、立ちましょう。
百合 叔父さん、何にも申しません、どうぞ、あの、晃さん、旦那様のお帰りまでお待ちなすって下さいまし。もし、皆さん、堪忍して下さいまし。……手を合せて拝みます。そ、そんな事が、まあ、私に……
管八 何だとう?
初雄 貴女《あなた》、お百合さん、何ですか。
百合 叔父さん、後生でございます……晃さんの帰りますまで。
宅膳 またしても旦那様じゃ。晃、晃と呆《あき》れた奴《やつ》めが。これ、潮《うしお》の満干《みちひ》、月の数……今日の今夜の丑満《うしみつ》は過されぬ。立ちましょう、立ちましょう。
管八 言うことを肯《き》かんと縛《くく》り上げるぞ。
嘉伝次 村、郡《こおり》のためじゃ、是非がない。これ、はい、気の毒なものじゃわい。
管八 お神官《かんぬし》、こりゃいかんでえ?
宅膳 引立《ひった》てて可《よ》うござる。
管八 来い、それ。
[#ここから2字下げ]
と村のもの取込むる。百合|遁《に》げ迷う。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
風呂助 埒《らち》あかんのう。私《わし》にまかせたが可うござんす。
[#ここから2字下げ]
とのさばり掛《かか》り、手もなく抱《だき》すくめて掴《つか》み行く。仕丁《しちょう》手伝い、牛の背に仰《あおむ》けざまに置く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
百合 ああれ。(と悶《もだ》ゆる。)
[#ここから2字下げ]
胴にまわし、ぐるぐると縄を捲《ま》く。お百合|背《せな》を捻《ね》じて面《おもて》を伏す。黒髪|颯《さっ》と乱れて長く牛の鰭爪《ひづめ》に落つ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
嘉伝次 宅膳どん、こりゃ、きものを着ていて可《よ》いかい。
宅膳 はあ、いずれ、社《やしろ》の森へ参って、式のごとく本支度に及びまするて。社務所には、既に、近頃このあたりの大地主になれらましたる代議士閣下をはじめ、お歴々衆、村民一同の事をお憂慮《きづかい》なされて、雨乞《あまごい》の模様を御見物にお揃いでござりますてな。
嘉伝次 その事じゃっけね。
初雄 皆、急ぐです。
管八 諸君努力せよかね、はははは。
[#ここから2字下げ]
一同、どやどやと行《ゆ》きかかる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
晃 (衝《つ》と来り、前途《ゆくて》に立って、屹《きっ》と見るより、仕丁を左右へ払いのけ、はた、と睨《にら》んで、牛の鼻頭《はなづら》を取って向け、手縄《たづな》を、ぐい、と緊《し》めて、ずかずか我家の前。腰なる鎌を抜くや否や、無言のまま、お百合のいましめの縄をふッと切る。)
百合 (一目見て)おお晃さん、(ところげ落ち、晃のうしろに身をかくして、帯の腰に取縋《とりすが》り)旦那様、いい処へ。貴下《あなた》。どうして、まあ、よく、まあ、早う帰って下さい
前へ
次へ
全8ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング