一樹が狂言を見ようとしたのも、他《ほか》のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う仔細《しさい》がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の目を圧《おさ》えたのを見るにつけても。……
 一樹を知ったほどのもので、画工《えかき》さんの、この癖を認めないものはなかろう。ちょいと内証で、人に知らせないように遣《や》る、この早業《はやわざ》は、しかしながら、礼拝と、愛撫と、謙譲と、しかも自恃《ほこり》をかね、色を沈静にし、目を清澄にして、胸に、一種深き人格を秘したる、珠玉を偲《しの》ばせる表顕《ひょうげん》であった。
 こういううちにも、舞台――舞台は二階らしい。――一間四面の堂の施主が、売僧《まいす》の魚説法を憤って、
「――おのれ何としょうぞ――」
「――打たば打たしめ、棒鱈《ぼうだら》か太刀魚《たちうお》でおうちあれ――」
「――おのれ、また打擲《ちょうちゃく》をせいでおこうか――」
「――ああ、いかな、かながしらも堪《たま》るものではない――」
「――ええ、苦々しいやつかな――」
「――いり海老《えび》のよ
前へ 次へ
全43ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング