一樹――本名、幹次郎《みきじろう》さんの、その妻恋坂の時分の事を言わねばならぬ。はじめ、別して酔った時は、幾度も画工《えかき》さんが話したから、私たちはほとんどその言葉通りといってもいいほど覚えている。が、名を知られ、売れッこになってからは、気振《けぶ》りにも出さず、事の一端に触れるのをさえ避けるようになった。苦心談、立志談は、往々にして、その反対の意味の、自己|吹聴《ふいちょう》と、陰性の自讃、卑下高慢になるのに気附いたのである。談中――主なるものは、茸《きのこ》で、渠《かれ》が番組の茸を遁《に》げて、比羅《びら》の、蛸《たこ》のとあのくたらを説いたのでも、ほぼ不断の態度が知れよう。
 但し、以下の一齣《ひとくさり》は、かつて、一樹、幹次郎が話したのを、ほとんどそのままである。

「――その年の残暑の激しさといってはありませんでした。内中皆|裸体《はだか》です。六畳に三畳、二階が六畳という浅間ですから、開放しで皆見えますが、近所が近所だから、そんな事は平気なものです。――色気も娑婆気《しゃばけ》も沢山な奴等《やつら》が、たかが暑いくらいで、そんな状《ざま》をするのではありません。実は
前へ 次へ
全43ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング