一樹が狂言を見ようとしたのも、他《ほか》のどの番組でもなく、ただこれあるがためであろう、と思う仔細《しさい》がある。あたかも一樹が、扇子のせめを切りながら、片手の指のさきで軽く乳のあたりと思う胸をさすって、返す指で、左の目を圧《おさ》えたのを見るにつけても。……
一樹を知ったほどのもので、画工《えかき》さんの、この癖を認めないものはなかろう。ちょいと内証で、人に知らせないように遣《や》る、この早業《はやわざ》は、しかしながら、礼拝と、愛撫と、謙譲と、しかも自恃《ほこり》をかね、色を沈静にし、目を清澄にして、胸に、一種深き人格を秘したる、珠玉を偲《しの》ばせる表顕《ひょうげん》であった。
こういううちにも、舞台――舞台は二階らしい。――一間四面の堂の施主が、売僧《まいす》の魚説法を憤って、
「――おのれ何としょうぞ――」
「――打たば打たしめ、棒鱈《ぼうだら》か太刀魚《たちうお》でおうちあれ――」
「――おのれ、また打擲《ちょうちゃく》をせいでおこうか――」
「――ああ、いかな、かながしらも堪《たま》るものではない――」
「――ええ、苦々しいやつかな――」
「――いり海老《えび》のような顔をして、赤目張《あかめば》るの――」
「――さてさて憎いやつの――」
相当の役者と見える。声が玄関までよく通って、その間に見物の笑声《わらいごえ》が、どッと響いた。
「さあ、こちらへどうぞ、」
「憚《はばか》り様。」
階子段《はしごだん》は広い。――先へ立つ世話方の、あとに続く一樹、と並んで、私の上りかかる処を、あがり口で世話方が片膝をついて、留まって、「ほんの仮舞台、諸事不行届きでありまして。」
挨拶《あいさつ》するのに、段を覗込《のぞきこ》んだ。その頭と、下から出かかった頭が二つ……妙に並んだ形が、早や横正面に舞台の松と、橋がかりの一二三の松が、人波をすかして、揺れるように近々と見えるので……ややその松の中へ、次の番組の茸が土を擡《もた》げたようで、余程おかしい。……いや、高砂《たかさご》の浦の想われるのに対しては、むしろ、むくむくとした松露であろう。
その景色の上を、追込まれの坊主が、鰭《ひれ》のごとく、キチキチと法衣《ころも》の袖《そで》を煽《あお》って、
「――こちゃただ飛魚《とびうお》といたそう――」
「――まだそのつれを言うか――」
「――飛魚しょう、飛魚し
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