ごとく、弟のごときものであることさえ分ったので、先んずれば人を制すで、ぴたりとその口を圧《おさ》えたのであろう。
讒口《なかぐち》は決して利かない、と早瀬は自分も言ったが、またこの門生の口一ツで、見事、纏《まとま》る縁も破ることは出来たのだったに。
ここで賽《さい》は河野の手に在矣《ありい》。ともかくもソレ勝負、丁か半かは酒井家の意志の存する処に因るのみとぞなんぬる。
先生が不承知を言えばだけれども、諾、とあればそれまで。お妙は河野英吉の妻になるのである。河野英吉の妻にお妙がなるのであるか。
お蔦さえ、憂慮《きづか》うよりむしろ口惜《くやし》がって、ヤイヤイ騒ぐから、主税の、とつおいつは一通りではない。何は措《おい》ても、余所《よそ》ながら真砂町の様子を、と思うと、元来お蔦あるために、何となく疵《きず》持足、思いなしで敷居が高い。
で何となく遠のいて、ようよう二日前に、久しぶりで御機嫌|窺《うかが》いに出た処、悪くすると、もう礼之進が出向いて、縁談が始まっていそうな中へ、急に足近くは我ながら気が咎める。
愚図々々《ぐずぐず》すれば、貴郎《あなた》例《いつも》に似合わない、きりきりなさいなね……とお蔦が歯痒《はがゆ》がる。
勇を鼓して出掛けた日が、先生は、来客があって、お話中。玄関の書生が取次ぐ、と(この次、来い。)は、ぎょっとした。さりとて曲がない。内証《ないしょう》のお蔦の事、露顕にでも及んだかと、まさかとは思うが気怯《きおく》れがして、奥方にもちょいと挨拶をしたばかり。その挨拶を受けらるる時の奥方が、端然として針仕事の、気高い、奥床しい、懐《なつかし》い姿を見るにつけても、お蔦に思較べて、いよいよ後暗《うしろめた》さに、あとねだりをなさらないなら、久しぶりですから一銚子《ひとちょうし》、と莞爾《にっこり》して仰せある、優しい顔が、眩《まぶし》いように後退《しりごみ》して、いずれまた、と逃出すがごとく帰りしなに、お客は誰?……とそっと玄関の書生に当って見ると、坂田礼之進、噫《ああ》、止《やん》ぬる哉《かな》。
しばらくは早瀬の家内、火の消えたるごとしで、憂慮《きづかわ》しさの余り、思切って、更に真砂町へ伺ったのが、すなわち薬師の縁日であったのである。
ちと、恐怖《おずおず》の形で、先ず玄関を覗《のぞ》いて、書生が燈下に読書するのを見て、またお邪魔に、と頭から遠慮をして、さて、先生は、と尋ねると、前刻御外出。奥様《おくさん》は、と云うと、少々御風邪の気味。それでは、お見舞に、と奥に入ろうとする縁側で、女中《おんな》が、唯今すやすやと御寐《おやすみ》になっていらっしゃいます、と云う。
悄々《すごすご》玄関へ戻って、お嬢さんは、と取って置きの頼みの綱を引いて見ると、これは、以前奉公していた女中《おんな》で、四ッ谷の方へ縁附《かたづ》いたのが、一年ぶりで無沙汰見舞に来て、一晩御厄介になる筈《はず》で、お夜食が済むと、奥方の仰《おおせ》に因り、お嬢さんのお伴をして、薬師の縁日へ出たのであった。
それでは私も通《とおり》の方を、いずれ後刻《のちほど》、とこれを機《しお》に。出しなにまた念のために、その後、坂田と云うのは来ませんか、と聞くと、アバ大人ですか、と書生は早や渾名を覚えた。ははは、来ましたよ。今日の午後《ひるすぎ》。
男金女土
二十八
主税は、礼之進が早くも二度の魁《かけ》を働いたのに、少なからず機先を制せられたのと――かてて加えてお蔦の一件が暴露《ばれ》たために、先生が太《いた》く感情を損ねられて、わざとにもそうされるか、と思われないでもない――玄関の畳が冷く堅いような心持とに、屈託の腕を拱《こまぬ》いて、そこともなく横町から通りへ出て、件《くだん》の漬物屋の前を通ると、向う側がとある大構《おおがまえ》の邸の黒板塀で、この間しばらく、三方から縁日の空が取囲んで押揺《おしゆる》がすごとく、きらきらと星がきらめいて、それから富坂をかけて小石川の樹立《こだち》の梢《こずえ》へ暗くなる、ちょっと人足の途絶え処。
東へ、西へ、と置場処の間数《けんすう》を示した標杙《くい》が仄白《ほのしろ》く立って、車は一台も無かった。真黒《まっくろ》な溝の縁に、野を焚《や》いた跡の湿ったかと見える破風呂敷《やぶれぶろしき》を開いて、式《かた》のごとき小灯《こともし》が、夏になってもこればかりは虫も寄るまい、明《あかり》の果敢《はかな》さ。三束《みたば》五束《いつたば》附木《つけぎ》を並べたのを前に置いて、手を支《つ》いて、縺《もつ》れ髪の頸《うなじ》清らかに、襟脚白く、女房がお辞儀をした、仰向けになって、踏反《ふんぞ》って、泣寐入《なきねい》りに寐入ったらしい嬰児《あかんぼ》が懐に、膝に縋《すが》って六歳《むッつ》ばかりの男の子が、指を銜《くわ》えながら往来をきょろきょろと視《なが》める背後《うしろ》に、母親のその背《せな》に凭《もた》れかかって、四歳《よッつ》ぐらいなのがもう一人。
一陣《ひとしきり》風が吹くと、姿も店も吹き消されそうで哀《あわれ》な光景《ありさま》。浮世の影絵が鬼の手の機関《からくり》で、月なき辻へ映るのである。
さりながら、縁日の神仏は、賽銭《さいせん》の降る中ならず、かかる処にこそ、影向《ようごう》して、露にな濡れそ、夜風に堪えよ、と母子《おやこ》の上に袖笠して、遠音に観世ものの囃子《はやし》の声を打聞かせたまうらんよ。
健在《すこやか》なれ、御身等、今若、牛若、生立《おいた》てよ、と窃《ひそか》に河野の一門を呪《のろ》って、主税は袂《たもと》から戛然《かちり》と音する松の葉を投げて、足|疾《と》くその前を通り過ぎた。
ふと例の煙草屋の金歯の亭主が、箱火鉢を前に、胸を反らせて、煙管《きせる》を逆に吹口でぴたり戸外《おもて》を指して、ニヤリと笑ったのが目に附くと同時に、四五人|店前《みせさき》を塞いだ書生が、こなたを見向いて、八の字が崩れ、九の字が分れたかと一同に立騒いで、よう、と声を懸ける、万歳、と云う、叱《しっ》、と圧《おさ》えた者がある。
向うの真砂町の原は、真中あたり、火定の済んだ跡のように、寂しく中空へ立つ火気を包んで、黒く輪になって人集《ひとだか》り。寂寞《ひっそり》したその原のへりを、この時通りかかった女が二人。
主税は一目見て、胸が騒いだ。右の方のが、お妙である。
リボンも顔も単《ひとえ》に白く、かすりの羽織が夜の艶《つや》に、ちらちらと蝶が行交う歩行《あるき》ぶり、紅《くれない》ちらめく袖は長いが、不断着の姿は、年も二ツ三ツ長《た》けて大人びて、愛らしいよりも艶麗《あでやか》であった。
風呂敷包を左手《ゆんで》に載せて、左の方へ附いたのは、大一番の円髷《まるまげ》だけれども、花簪《はなかんざし》の下になって、脊が低い。渾名を鮹《たこ》と云って、ちょんぼりと目の丸い、額に見上げ皺《じわ》の夥多《おびただ》しい婦《おんな》で、主税が玄関に居た頃勤めた女中《おさん》どん。
心懸けの好《い》い、実体《じってい》もので、身が定まってからも、こうした御機嫌うかがいに出る志。お主《しゅう》の娘に引添《ひっそ》うて、身を固めて行《ゆ》く態《ふり》の、その円髷の大《おおき》いのも、かかる折から頼もしい。
煙草屋の店でくるくるぱちぱち、一打《いちダアス》ばかりの眼球《めのたま》の中を、仕切《しきっ》て、我身でお妙を遮るように、主税は真中へ立ったから、余り人目に立つので、こなたから進んで出て、声を掛けるのは憚《はばか》って差控えた。
そうしてお妙が気が付かないで、すらすらと行過ぎたのが、主税は何となく心寂しかった。つい前《さき》の年までは、自分が、ああして附いて出たに。
とリボンが靡《なび》いて、お妙は立停まった。
肩が離れて、大《おおき》な白足袋の色新しく、附木《つけぎ》を売る女房のあわれな灯《ともしび》に近《ちかづ》いたのは円髷で。実直ものの丁寧に、屈《かが》み腰になって手を出したは、志を恵んだらしい。親子が揃って額《ぬか》ずいた時、お妙の手の巾着《きんちゃく》が、羽織の紐の下へ入って、姿は辻の暗がりへ。
書生たちは、ぞろぞろと煙草屋の軒を出て、斉《ひとし》く星を仰いだのである。
二十九
○男金女土《おとこかねおんなつち》大《おおい》に吉《よし》、子五人か九人あり衣食満ち富貴《ふっき》にして――
男金女土こそ大吉よ
衣食みちみち…………
と歌の方も衣食みちみちのあとは、虫蝕《むしくい》と、雨染《あまじ》みと、摺剥《すりむ》けたので分らぬが、上に、業平《なりひら》と小町のようなのが対向《さしむか》いで、前に土器《かわらけ》を控えると、万歳烏帽子《まんざいえぼし》が五人ばかり、ずらりと拝伏した処が描いてある。いかさまにも大吉に相違ない。
主税は、お妙の背後《うしろ》姿を見送って、風が染みるような懐手で、俯向《うつむ》き勝ちに薬師堂の方へ歩行《ある》いて来て、ここに露店の中に、三世相がひっくりかえって、これ見よ、と言わないばかりなのに目が留まって、漫《そぞろ》に手に取って、相性の処を開けたのであった。
その英吉が、金の性《しょう》、お妙が、土性であることは、あらかじめお蔦が美《うつくし》い指の節から、寅卯戌亥《とらういぬい》と繰出したものである。
半吉ででもある事か、大《おおい》に吉《よし》は、主税に取って、一向に芽出度《めでたく》ない。勿論、いかに迷えば、と云って、三世相を気にするような男ではないけれども、自分はとにかく、先生は言うに及ばずながら、奥方はどうかすると、一白九紫を口にされる。同じ相性でも、始《はじめ》わるし、中程宜しからず、末|覚束《おぼつか》なしと云う縁なら、いくらか破談の方に頼みはあるが……衣食満ち満ち富貴……は弱った。
のみならず、子五人か、九人あるべしで、平家の一門、藤原一族、いよいよ天下に蔓《はびこ》らんずる根ざしが見えて容易でない。
すでに過日《いつか》も、現に今日の午後《ひるすぎ》にも、礼之進が推参に及んだ、というきっさきなり、何となく、この縁、纏まりそうで、一方ならず気に懸る。
ああ、先生には言われぬ事、奥方には遠慮をすべき事にしても、今しも原の前で、お妙さんを見懸けた時、声を懸けて呼び留めて、もし河野の話が出たら、私は厭《いや》、とおっしゃいよ、と一言いえば可かったものを。
大道で話をするのが可訝《おかし》ければ、その辺の西洋料理へ、と云っても構わず、鳥居の中には藪蕎麦《やぶそば》もある。さしむかいに云うではなし、円髷も附添った、その女中《おんな》とても、長年の、犬鷹朋輩の間柄、何の遠慮も仔細《しさい》も無かった。
お妙さんがまた、あの目で笑って、お小遣いはあるの? とは冷評《ひやか》しても、どこかへ連れられるのを厭味らしく考えるような間《なか》ではないに、ぬかったことをしたよ。
なぞと取留めもなく思い乱れて、凝《じっ》とその大吉を瞻《みつ》めていると、次第次第に挿画《さしえ》の殿上人に髯《ひげ》が生えて、たちまち尻尾のように足を投げ出したと思うと、横倒れに、小町の膝へ凭《もた》れかかって、でれでれと溶けた顔が、河野英吉に、寸分違わぬ。
「旦那いかがでございます。えへへ、」と、かんてらの灯の蔭から、気味の悪い唐突《だしぬけ》の笑声《わらいごえ》は、当露店の亭主で、目を細うして、額で睨《にら》んで、
「大分御意に召しましたようで、えへへ。」
「幾干《いくら》だい。」
とぎょっとした主税は、空《くう》で値を聞いて見た。
「そうでげすな。」
と古帽子の庇《ひさし》から透かして、撓《た》めつつ、
「二十銭にいたして置きます。」と天窓《あたま》から十倍に吹懸《ふっか》ける。
その時かんてらが煽《あお》る。
主税は思わず三世相を落して、
「高価《たか》い!」
「お品が少うげして、へへへ、当節の九星早合点、陶宮手引草などと云う活版本とは違いますで、」
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