「何だか知らんが、さんざ汚れて引断《ひっち》ぎれているじゃないか。」
「でげすがな、絵が整然《ちゃん》としておりますでな、挿絵は秀蘭斎貞秀で、こりゃ三世相かきの名人でげす。」
と出放題な事を云う。相性さえ悪かったら、主税は二十銭のその二倍でもあえて惜くはなかったろう。
「余り高価いよ。」と立ちかける。
「お幾干で? ええ、旦那。」
と引据《ひっす》えるように圧《おさ》えて云った。
「半分か。」
「へい。」
「それだって廉《やす》くはない。」
三十
亭主は膝を抱いて反身《そりみ》になり、禅の問答持って来い、という高慢な顔色《がんしょく》で。
「半|価値《ねだん》は酷《ひど》うげす。植木屋だと、じゃあ鉢は要りませんか、と云って手を打つんでげすがな。画だけ引剥《ひっぺが》して差上げる訳にも参りませんで。どうぞ一番《ひとつ》御奮発を願いてえんで。五銭や十銭、旦那方にゃ何だけの御散財でもありゃしません。へへへへへ、」
「一体高過ぎる、無法だよ。」
と主税はその言い種《ぐさ》が憎いから、ますます買う気は出なくなる。
「でげすがな、これから切通しの坂を一ツお下りになりゃ、五両と十両は飛ぶんでげしょう。そこでもって、へへへ、相性は聞きたし年紀《とし》は秘《かく》したしなんて寸法だ。ええ、旦那、三世相は御祝儀にお求め下さいな。」
いよいよむっとして、
「要らない。」と、また立とうとする。
「じゃもう五銭、五百、たった五銭。」
片手を開いて、肱《ひじ》で肩癖《けんぺき》の手つきになり、ばらばらと主税の目前《めさき》へ揉《も》み立てる。
憤然として衝《つッ》と立った。主税の肩越しにきらりと飛んで、かんてらの燻《くすぶ》った明《あかり》を切って玉のごとく、古本の上に異彩を放った銀貨があった。
同時に、
「要るものなら買って置け。」
と※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《さび》のある、凜《りん》とした声がかかった。
主税は思わず身を窘《すく》めた。帽子を払って、は、と手を下げて、
「先生。」
露店の亭主は這出して、慌てて古道具の中へ手を支《つ》いて、片手で銀貨を圧《おさ》えながら、きょとんと見上げる。
茶の中折帽《なかおれ》を無造作に、黒地に茶の千筋、平お召の一枚小袖。黒斜子《くろななこ》に丁子巴《ちょうじどもえ》の三つ紋の羽織、紺の無地献上博多の帯腰すっきりと、片手を懐に、裄短《ゆきみじか》な袖を投げた風采は、丈高く痩《や》せぎすな肌に粋《いなせ》である。しかも上品に衣紋《えもん》正しく、黒八丈《くろはち》の襟を合わせて、色の浅黒い、鼻筋の通った、目に恐ろしく威のある、品のある、[#「、」は底本では「。」]眉の秀でた、ただその口許《くちもと》はお妙に肖《に》て、嬰児《みどりご》も懐《なつ》くべく無量の愛の含まるる。
一寸見《ちょっとみ》には、かの令嬢にして、その父ぞとは思われぬ。令夫人《おくがた》は許嫁《いいなずけ》で、お妙は先生がいまだ金鈕《きんぼたん》であった頃の若木の花。夫婦《ふたり》の色香を分けたのである、とも云うが……
酒井はどこか小酌の帰途《かえり》と覚しく、玉樹一人縁日の四辺《あたり》を払って彳《たたず》んだ。またいつか、人足もややこの辺《あたり》に疎《まばら》になって、薬師の御堂の境内のみ、その中空も汗するばかり、油煙が低く、露店《ほしみせ》の大傘《おおがらかさ》を圧している。
会釈をしてわずかに擡《もた》げた、主税の顔を、その威のある目で屹《きっ》と見て、
「少《わか》いものが何だ、端銭《はした》をかれこれ人中で云っている奴があるかい、見っともない。」
と言い棄てて、直ぐに歩を移して、少し肩の昂《あが》ったのも、霜に堪え、雪を忍んだ、梅の樹振は潔い。
呆気《あっけ》に取られた顔をして、亭主が、ずッと乗出しながら、
「へい。」
とばかり怯《おび》えるように差出した三世相を、ものをも言わず引掴《ひッつか》んで、追縋《おいすが》って跡に附くと、早や五六間|前途《むこう》へ離れた。
「どうも恐入ります。ええ、何、別に入用《いりよう》なのじゃないのでございますから、はい、」
と最初の一喝に怯気々々《びくびく》もので、申訳らしく独言《ひとりごと》のように言う。
酒井は、すらりと懐手のまま、斜めに見返って、
「用《い》らないものを、何だって価を聞くんだ。素見《ひやか》すのかい、お前は、」
「…………」
「素見すのかよ。」
「ええ、別に、」と俯向《うつむ》いて怨めしそうに、三世相を揉み、且つ捻《ひね》くる。
少時《しばらく》して、酒井はふと歩《あゆみ》を停めて、
「早瀬。」
「はい、」
とこの返事は嬉しそうに聞えたのである。
三十一
名を呼ばれるさえ嬉しいほど、久闊《しばらく》懸違《かけちが》っていたので、いそいそ懐かしそうに擦寄ったが、続いて云った酒井の言《ことば》は、太《いた》く主税の胸を刺した。
「どこへ行くんだ。」
これで突放されたようになって、思わず後退《あとしざ》りすること三尺半。
この前《さき》の、原一つ越した横町が、先生の住居《すまい》である。そなたに向って行くのに、従って歩行《ある》くものを、(どこへ行く。)は情ない。散々の不首尾に、云う事も、しどろになって、
「散歩でございます。」
「わざわざ、ここの縁日へ出て来たのか。」
「いいえ、実は……」
といささか取附くことが出来た……
「先刻、御宅へ伺いましたのですが、御留守でございましたから、後程にまた参りましょうと存じまして、その間この辺にぶらついておりました。先生は、」
酒井がずッと歩行《ある》き出したので、たじたじと後を慕うて、
「どちらへ?」
「俺か。」
「ずッと御帰宅《おかえり》でございますか。」
知れ切ったような事を、つなぎだけに尋ねると、この答えがまた案外なものであった。
「俺は、何だ、これからお前の処へ出掛けるんだ。」
「ええ!」と云ったが、何は措《お》いても夜が明けたように勇み立って、
「じゃ、あのこちらから……角の電車へ、」と自分は一足|引返《ひっかえ》したが、慌ててまた先へ出て、
「お車を申しましょうか。」
とそわそわする。
「水道橋まで歩行くが可い。ああ、酔醒《えいざ》めだ。」と、衣紋《えもん》を揺《ゆす》って、ぐっと袖口へ突込んだ、引緊《ひきし》めた腕組になったと思うと、林檎《りんご》の綺麗な、芭蕉実《バナナ》の芬《ふん》と薫る、燈《あかり》の真蒼《まっさお》な、明《あかる》い水菓子屋の角を曲って、猶予《ためら》わず衝《つ》と横町の暗がりへ入った。
下宿屋の瓦斯《がす》は遠し、顔が見えないからいくらか物が云いよくなって、
「奥さんが、お風邪|気《け》でいらっしゃいますそうで、不可《いけ》ませんでございます。」
「逢ったか。」
「いえ、すやすやお寐《やす》みだと承りましたから、御遠慮申しました。」
「妙は居たかい。」
「四谷へ縁附《かたづ》いております、先《せん》のお光《みつ》をお連れなさいまして、縁日へ。」
「そうか、娘《こども》が出歩行《である》くようじゃ、大した御容態でもなしさ。」
と少し言《ことば》が和らいで来たので、主税は吻《ほっ》と呼吸《いき》を吐《つ》いて、はじめて持扱った三世相を懐中《ふところ》へ始末をすると、壱岐殿坂《いきどのざか》の下口《おりぐち》で、急な不意打。
「お前の許《とこ》でも皆《みんな》健康《たっしゃ》か。」
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事《ただごと》でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳《ひがみみ》であろう、と自分でも疑って、
「はい?」
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠《ぞうへい》の夜の光景は、楽天的に視《ながめ》ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々《ごうごう》と轟《とどろ》く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
通りかかる時、蒸気が真白《まっしろ》な滝のように横ざまに漲《みなぎ》って路を塞いだ。
やがて、水道橋の袂《たもと》に着く――酒井はその雲に駕《が》して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨《まきたばこ》を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
萌黄《もえぎ》の光が、ぱらぱらと暗《やみ》に散ると、炬《きょ》のごとく輝く星が、人を乗せて衝《つ》と外濠《そとぼり》を流れて来た。
電車
三十二
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜《よ》、道学者坂田礼之進は、渠《かれ》が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委《くわ》しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌《しゃべ》ったり……と云うと尾籠《びろう》になる。紳士貴婦人が互に相親睦《あいしんぼく》する集会で、談政治に渉《わた》ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇《しょうび》薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめ[#「おしめ」に傍点]と襷《たすき》を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児《こども》が泣く。町内迷惑な……その、男女交際会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染《なじみ》の会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の明《あかる》い電車に乗った。
(アバ大人ですか、ハハハ今日の午後《ひるすぎ》。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰《ひまつぶ》しをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、更《あらた》めて夫子自身《ふうしみずから》を労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭《ただ》で手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇《しばい》の見物の幹事をして、それを縁に、俳優《やくしゃ》と接吻《キス》する貴婦人もあると云うから。
もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜《かくし》にして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
礼之進は提革《さげかわ》に掴《つかま》りながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕《あばた》を散らして、目を配って、鬢《びんずら》、簪《かんざし》、庇《ひさし》、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児《えどッこ》はこの味を知るまい、と乗合の婦《おんな》の移香を、楽《たのし》みそうに、歯をスーと遣《や》って、片手で頤《あご》を撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然《がぜん》として、慄然《りつぜん》として、膚《はだ》寒うして、腰が軽い。
途端に引込《ひっこ》めた、年紀《とし》の若い半纏着《はんてんぎ》の手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗《あぶらあせ》で、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴《ひッつか》んだ。
道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸《すり》が居たそうな。
「…………」
と、わなないて、気が上ずッて、ただ睨《にら》む。
対手《あいて》は手拭《てぬぐい》も被《かぶ》らない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、頭《ず》を下げて、
「御免なすって、」と盗むように哀憐《あわれみ》を乞う目づかいをする。
「
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