己を早瀬だと思え。世界に二人と無い夫だと思え。早瀬より豪《えら》い男だ。学問も出来る、名も高い、腕も有る、あれよりは年も上だ。脊も高い、腹も確《たしか》だ、声も大《おおき》い、酒も強い、借金も多い、男|振《ぶり》もあれより増《まし》だ。女房もあり、情婦《いろ》もあり、娘も有る。地位も名誉も段違いの先生だ。酒井俊蔵を夫と思え、情夫《いろおとこ》と思え、早瀬主税だと思って、言いたいことを言え、したいことをしろ、不足はあるまい。念仏も弥陀《みだ》も何《なんに》も要らん、一心に男の名を称《とな》えるんだ。早瀬と称えて袖に縋《すが》れ、胸を抱け、お蔦。……早瀬が来た、ここに居るよ。」
と云うと、縋りついて、膝に乗るのを、横抱きに頸《うなじ》を抱いた。
トつかまろうとする手に力なく、二三度探りはずしたが、震えながらしっかりと、酒井先生の襟を掴《つか》んで、
「咽喉《のど》が苦しい、ああ、呼吸《いき》が出来ない。素人らしいが、(と莞爾《にっこり》して、)口移しに薬を飲まして……」
酒井は猶予《ため》らわず[#「猶予らわず」は底本では「猶了らわず」]、水薬を口に含んだのである。
がっくりと咽喉を通ると、気が遠くなりそうに、仰向けに恍惚《うっとり》したが、
「早瀬さん。」
「お蔦。」
「早瀬さん……」
「むむ、」
「先《せ》、先生が逢っても可いって、嬉しいねえ!」
酒井は、はらはらと落涙した。
おとずれ
四十八
病室の寝台《ねだい》に、うつらうつらしていた早瀬は、フト目が覚めたが……昨夜あたりから、歩行《ある》いて厠《かわや》へ行《ゆ》かれるようになったので、もう看護婦も付いておらぬ。毎晩|極《きま》ったように見舞ってくれた道子が、一昨日《おととい》の夜《よ》の……あの時から、ふッつり来ないし、一寝入りして覚めた今は、昼間、菅子に逢ったのも、世を隔てたようで心寂しい。室内を横伝い、まだ何か便り無さそうだから、寝台の縁に手をかけて、腰を曲げるようにして出たが、扉《と》の外になると、もう自分でも足の確《たしか》なのが分って、両側のそちこちに、白い金盥《かなだらい》に昇汞水《しょうこうすい》の薄桃色なのが、飛々の柱燈《はしらあかり》に見えるのを、気の毒らしく思うほど、気も爽然《さっぱり》して、通り過ぎた。
どこも寝入って、寂《しん》として、この二三日[#「二三日」は底本では「三三日」]めっきり暑さが増したので、中には扉《と》を明けたまま、看護婦が廊下へ雪のような裙《すそ》を出して、戸口に横《よこた》わって眠ったのもあった。遠くで犬の吠ゆる声はするが、幸いどの呻吟声《うめきごえ》も聞えずに、更けてかれこれ二時であろう。
厠は表階子《おもてばしご》の取附《とッつ》きにもあって、そこは燈《あかり》も明《あかる》いが、風は佳《よ》し、廊下は冷たし、歩行《ある》くのも物珍らしいので、早瀬はわざと、遠い方の、裏階子の横手の薄暗い中へ入った。
ざぶり水を注《か》けながら、見るともなしに、小窓の格子から田圃《たんぼ》を見ると、月は屋《や》の棟に上ったろう、影は見えぬが青田の白さ。
風がそよそよと渡ると見れば、波のように葉末が分れて、田の水の透いたでもなく、ちらちらと光ったものがある。緩い、遅い、稲妻のように流れて、靄《もや》のかかった中に、土のひだが数えられる、大巌山の根を低く繞《めぐ》って消えたのは、どこかの電燈が閃《ひらめ》いて映ったようでもあるし、蛍が飛んだようにも思われる。
手水《ちょうず》と、その景色にぶるぶると冷くなって、直ぐに開けて出ようとする。戸の外へ、何か来て立っていて、それがために重いような気がして、思わず猶予《ためら》って[#「猶予って」は底本では「猶了って」]、暗い中に、昼間|被《き》かえた自分の浴衣の白いのを、視《なが》めて悚然《ぞっ》として咳《せき》をしたが、口の裡《うち》で音には出ぬ。
「早瀬さん。」
「お蔦か、」
と言った自分の声に、聞えた声よりも驚かされて、耳を傾けるや否や、赫《かっ》となって我を忘れて、しゃにむに引開けようとした戸が、少しきしんで、ヒヤリと氷のような冷いものを手に掴んで、そのまま引開けると、裏階子が大《おおき》な穴のように真黒《まっくろ》なばかりで、別に何にも無い。
瓦を噛《か》むように棟近く、夜鴉《よがらす》が、かあ、と鳴いた。
鳴きながら、伝うて飛ぶのを、※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》として仰ぎながら、導かれるようにふらふらと出ると、声の止む時、壇階子の横を廊下に出ていた。
と見ると打向い遥か斜めなる、渠《かれ》が病室の、半開きにして来た扉《と》の前に、ちらりと見えた婦《おんな》の姿。――出たのか、入ったのか、直ぐに消えた。
ぱたぱたと、我ながら慌《あわただ》しく跫音《あしおと》立てて、一文字に駈けつけたが、室へ入口で、思わず釘附にされたようになった。
バサリと音して、一握《ひとにぎり》の綿が舞うように、むくむくと渦《うずま》くばかり、枕許の棚をほとんど転《ころが》って飛ぶのは、大きな、色の白い蛾《ひとりむし》で。
枕をかけて陰々とした、燈《ともしび》の間に、あたかも鞠《まり》のような影がさした。棚には、菅子が活けて置いた、浅黄の天鵝絨《びろうど》に似た西洋花の大輪《おおりん》があったが、それではなしに――筋一ツ、元来の薬|嫌《ぎらい》が、快いにつけて飲忘れた、一度ぶり残った呑かけの――水薬《すいやく》の瓶に、ばさばさと当るのを、熟《じっ》と瞻《みつ》めて立つと、トントントンと壇を下りるような跫音がしたので、どこか、と見当も分らず振向いたのが表階子の方であった。その正面の壁に、一番|明《あかる》かった燈《ひ》が、アワヤ消えそうになっている。
その時、蛾《ひとりむし》に向うごとく、衝《つ》と踏込む途端に、
「私ですよう引[#「引」は小書き]」と床に沈んで、足許の天井裏に、電話の糸を漏れたような、夢の覚際に耳に残ったような、胸へだけ伝わるような、お蔦の声が聞えたと思うと、蛾《ひとりむし》がハタと落ちた。
はじめて心付くと、厠の戸で冷く握って、今まで握緊《にぎりし》めていた、左の拳《こぶし》に、細い尻尾のひらひらと動くのは、一|尾《ぴき》の守宮《やもり》である。
はっと開くと、雫《しずく》のように、ぽたりと床に落ちたが、足を踏張ったまま動きもせぬ。これに目も放さないで、手を伸ばして薬瓶を取ると、伸過ぎた身の発奮《はず》みに、蹌踉《よろ》けて、片膝を支《つ》いたなり、口を開けて、垂々《たらたら》と濺《そそ》ぐと――水薬の色が光って、守宮の頭を擡《もた》げて睨《にら》むがごとき目をかけて、滴るや否や、くるくると風車のごとく烈しく廻るのが、見る見る朱を流したように真赤《まっか》になって、ぶるぶると足を縮めるのを、早瀬は瞳を据えて屹《きっ》と視た。
四十九
早瀬はその水薬《すいやく》の残余《のこり》を火影《ほかげ》に透かして、透明な液体の中に、芥子粒《けしつぶ》ほどの泡の、風のごとくめぐる状《さま》に、莞爾《にっこり》して、
「面白い!」
と、投げる様に言棄てたが、恐気《おそれげ》も無く、一分時の前は炎のごとく真紅《まっか》に狂ったのが、早や紫色に変って、床に氷ついて、飜《ひるがえ》った腹の青い守宮《やもり》を摘《つま》んで、ぶらりと提げて、鼻紙を取って、薬瓶と一所に、八重にくるくると巻いて包んで、枕許のその置戸棚の奥へ、着換の中へ突込んで、ついでにまだ、何かそこらを探したのは、落ちた蛾を拾おうとするらしかったが、それは影も無い。
なお棚には、他に二つばかり処方の違った、今は用いぬ、同一《おなじ》薬瓶があった。その一個《ひとつ》を取って、ハタと叩きつけると、床に粉々になるのを見向きもしないで、躍上るように勢込んで寝台《ねだい》に上って、むずと高胡坐《たかあぐら》を組んだと思うと、廊下の方を屹《きっ》と見て、
「馬鹿な奴等! 誰だと思う。」
と言うと斉《ひと》しく、仰向けに寝て、毛布《けっと》を胸へ。――鶏《とり》の声を聞きながら、大胆不敵な鼾《いびき》で、すやすやと寝たのである。
暁かけて、院長が一度、河野の母親大夫人が一度、前後して、この病室を差覗《さしのぞ》いて、人知れず……立去った。
早瀬が目を覚ますと、受持の看護婦が、
「薬は召上りましたか。瓶が落ちて破《わ》れておりましたが。」
と注意をしたのは言うまでもなかった。
で、新《あたらし》い瓶がもう来ていたが、この分は平気で服した。
その日|燈《あかり》の点《つ》くちと前に、早瀬は帯を緊直《しめなお》して、看護婦を呼んで、
「お世話になりました。お庇様《かげさま》でどうやら助りました。もう退院をしまして宜しいそうで、後の保養は、河野さんの皆さんがいらっしゃる、清水港の方へ来てしてはどうか、と云って下さいますから、参ろうかと思います。何にしても一旦塾の方へ引取りますが、種々《いろいろ》用がありますから、人を遣って、内の小使をお呼び下さい。それから、お呼立て申して済みませんが、少々お目に懸りたい事がございます。ちょっとこの室までお運びを願いたい、と河野さんに。……いや、院長さんじゃありません、母屋にいらっしゃる英臣さん。」
「はあ、大先生に……申し上げましょう。」
「どうぞ。ああ、もし、もし、」
と出掛けた白衣《びゃくえ》の、腰の肥《ふと》いのを呼留めて、
「御書見中ででもありましたら、御都合に因って、こちらから参りましても可《よ》うございますと。」
馴染んでいるから、黙って頷《うなず》いて室を出て、表階子の方へ跫音《あしおと》がして、それぎり忙しい夕暮の蝉の声。どこかの室で、新聞を朗読するのが聞えたが、ものの五分間|経《た》ったのではなかった。二階もまだ下り切るまいと思うのに、看護婦が、ばたばた忙《せわ》しく引返して、発奮《はずみ》に突込むように顔を出して、
「お客様ですよ。」
「島山さんの?」
と言う、呼吸《いき》も引かず、早瀬は目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って茫然とした。
昨夜《ゆうべ》の事の不思議より、今|目前《まのあたり》の光景を、かえって夢かと思うよう、恍惚《うっとり》となったも道理。
看護婦の白衣にかさなって、紫の矢絣《やがすり》の、色の薄いが鮮麗《あざやか》に、朱緞子《しゅどんす》に銀と観世水のやや幅細な帯を胸高に、緋鹿子《ひがのこ》の背負上《しょいあ》げして、ほんのり桜色に上気しながら、こなたを見入ったのは、お妙である!
「まあ!……」
ときょとんとして早瀬はひたと瞻《みつ》めた。
「主税さん。」
と、一年越、十年《ととせ》も恋しく百年《ももとせ》も可懐《なつかし》い声をかけて、看護婦の傍《かたわら》をすっと抜けて真直《まっすぐ》に入ったが、
「もう快《よ》くって?」
と胸を斜めに、帯にさし込んだ塗骨の扇子《おうぎ》も共に、差覗《さしのぞ》くようにした。
「お嬢さん……」とまだ※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》としている。
「しばらくね。」
と前《さき》へ言われて、はじめて吃驚《びっくり》した顔をして、
「先生は?」
「宜しくッて、母さんも。」と、ちゃんと云う。
五十
寝台《ねだい》と椅子との狭い間、目前《めさき》にその燃ゆるような帯が輝いているので、辷《すべ》り下りようとする、それもならず。蒼空《あおぞら》の星を仰ぐがごとく、お妙の顔を見上げながら、
「どうして来たんです。誰と。貴女《あなた》。いつ。どの汽車で。」と、一呼吸《ひといき》に慌《あわただ》しい。
「今日の正午《おひる》の汽車で、今来たわ。惣助ッて肴屋《さかなや》さんが一所なの。」
「ええ、め[#「め」に傍点]組がお供で。どうしてあれを御存じですね。」
「お蔦さんの事よ、」
と言いかける、口の莟《つぼみ》
前へ
次へ
全43ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング