「なぜ? 貴下、」
 と、熟《じっ》と頤《おとがい》を据えて、俯向《うつむ》いて顔を見ると、早瀬はわずかに目を開《あ》いて、
「なぜとは?」
「…………」
「第一、貴女に、見せられる顔じゃありません。」
 と云う呼吸《いき》づかいが荒くなって、毛布《けっと》を乗出した、薄い胸の、露《あら》わな骨が動いた時、道子の肩もわなわなして、真白な手の戦《おのの》くのが、雪の乱るるようであった。
「安東村へおともをしたのは……夢ではないのでございますね。」
 早瀬は差置かれた胸の手に、圧《お》し殺されて、あたかも呼吸の留るがごとく、その苦《くるしみ》を払わんとするように、痩細《やせほそ》った手で握って、幾度《いくたび》も口を動かしつつ辛うじて答えた。
「夢ではありません、が、この世の事ではないのです。お、お道さん、毒を、毒を一思いに飲まして下さい。」
 と魚《うお》の渇けるがごとく悶《もだ》ゆる白歯に、傾く鬢《びん》からこぼるるよと見えて、衝《つ》と一片《ひとひら》の花が触れた。
 颯《さっ》となった顔を背けて、
「夢でなければ……どうしましょう!」
 と道子は崩れたように膝を折って、寝台の端に額を隠した。窓の月は、キラリと笄《こうがい》の艶《つや》に光って、雪燈《ぼんぼり》は仄かに玉のごとき頸《うなじ》を照らした。
 これより前《さき》、看護婦の姿が欄干から消えて、早瀬の病室の扉《と》が堅く鎖《とざ》されると同時に、裏階子《うらはしご》の上へ、ふと顕《あらわ》れた一|人《にん》の婦《おんな》があって、堆《うずたか》い前髪にも隠れない、鋭い瞳は、屹《き》と長廊下を射るばかり。それが跫音《あしおと》を密《ひそ》めて来て、隣の空室《あきま》へ忍んだことを、断って置かねばならぬ。こは道子等の母親である。
 ――同一《おなじ》事が――同一事が……五晩六晩続いた。

       四十五

 妙なことが有るもので、夜ごとに、道子が早瀬の病室を出る時間の後れるほど、人こそ替れ、二人ずつの看護婦の、階子段の欄干を離れるのが遅くなった。
 どうせそこに待っていて、一所に二階を下りるのではない――要するに、遠くから、早瀬の室を窺う間が長くなったのである、と言いかえれば言うのである。
 で、今夜もまた、早瀬の病室の前で、道子に別れた二人の白衣《びゃくえ》が、多時《しばらく》宙にかかったようになって、欄干の処に居た。
 広庭を一つ隔てた母屋の方では、宵の口から、今度暑中休暇で帰省した、牛込桐楊塾の娘たちに、内の小児《こども》、甥《おい》だの、姪《めい》だのが一所になった処へ、また小児同志の客があり、草深の一家《いっけ》も来、ヴァイオリンが聞える、洋琴《オルガン》が鳴る、唱歌を唄う――この人数《にんず》へ、もう一組。菅子の妹の辰子というのが、福井県の参事官へ去年《こぞ》の秋縁着いてもう児《こ》が出来た。その一組が当河野家へ来揃うと、この時だけは道子と共に、一族残らず、乳母小間使と子守を交ぜて、ざっと五十人ばかりの人数で、両親《ふたおや》がついて、かねてこれがために、清水|港《みなと》に、三保に近く、田子の浦、久能山、江尻はもとより、興津《おきつ》、清見《きよみ》寺などへ、ぶらりと散歩が出来ようという地を選んだ、宏大な別荘の設《もうけ》が有って、例年必ずそこへ避暑する。一門の栄華を見よ、と英臣大夫妻、得意の時で、昨年は英吉だけ欠けたが、……今年も怪しい。そのかわり、新しく福井県の顕官が加わるのである……
 さて母屋の方は、葉越に映る燈《ともしび》にも景気づいて、小さいのが弄《もてあそ》ぶ花火の音、松の梢《こずえ》に富士より高く流星も上ったが、今は静《しずか》になった。
 壇の下から音もなく、形の白い脊の高いものが、ぬいと廊下へ出た、と思うと、看護婦二人は驚いて退《すさ》った。
 来たのは院長、医学士河野理順である。
 ホワイト襯衣《しゃつ》に、縞《しま》の粗《あら》い慢《ゆるやか》な筒服《ずぼん》、上靴を穿《は》いたが、ビイルを呷《あお》ったらしい。充血した顔の、額に顱割《はちわれ》のある、髯《ひげ》の薄い人物で、ギラリと輝く黄金縁《きんぶち》の目金越に、看護婦等を睨《ね》め着けながら、
「君たちは……」
 と云うた眼《まなこ》が、目金越に血走った。
「道子に附いているんじゃないか。」
「は、」と一|人《にん》が頭《こうべ》を下げる。
「どうしたか。」
「は、早瀬さんの室を、お見舞になります時は、いつも私《わたくし》どもはお附き申しませんでございます。」と爽《さわやか》な声で答えた。
「なぜかい。」
「奥様がおっしゃいます。御本宅の英吉様の御朋友ですから、看護婦なぞを連れては豪《えら》そうに見えて、容体ぶるようで気恥かしいから、とおっしゃって、お連れなさいませんので、は……」と云う。
「いつもそうか。」
 と尋ねた時、衣兜《かくし》に両手を突込んで、肩を揺《ゆす》った。
「はい、いつでも、」
「む、そうか。」と言い棄てに、荒らかに廊下を踏んだ。

「あれ、主人《あるじ》の跫音《あしおと》でございます。」
「院長ですか。」
 道子は色を変えて、
「あれ、どうしましょう、こちらへ参りますよ。アレ、」
「院長が入院患者を見舞うのに、ちっとも不思議はありません。」と早瀬は寝ながら平然として云った。
 目も尋常《ただ》ならず、おろおろして、
「両親も知りませんが、主人《あるじ》は酷《ひど》い目に逢わせますのでございますよ。」としめ木にかけられた様に袖を絞って立窘《たちすく》むと、
「寝台《ねだい》の下へお隠れなさい。可《い》いから、」
 とむっくと起きた、早瀬は毛布《けっと》を飜《ひるがえ》して、夫人の裾を隠しながら、寝台に屹《きっ》と身構えたトタンに、
「院長さんが御廻診ですよう!」と看護婦の金切声が物凄《ものすご》く響いたのである。
 理順は既に室に迫って、あわや開けようとすると、どこに居たか、忽然《こつぜん》として、母夫人が立露《たちあらわ》れて、扉《ドア》に手を掛けた医学士の二の腕を、横ざまにグッと圧《おさ》えて……曰く、
「院長。」
 と、その得も言われぬ顔を、例の鋭い目で、じろりと見て、
「どうぞ、こちらへ。いいえ、是非。」
 燃ゆるがごとき嫉妬の腕《かいな》を、小脇にしっかり抱込んだと思うと、早や裏階子の方へ引いて退《の》いた。――


     蛍

       四十六

「己《おれ》が分るか、分るか。おお酒井だ。分ったか、しっかりしな。」
 酒井俊蔵ただ一人、臨終《いまわ》のお蔦の枕許に、親しく顔を差寄せた。次の間には……
「ああ、皆《みんな》居るとも。妙も居るよ。大勢居るから気を丈夫に持て! ただ早瀬が見えん、残念だろう、己も残念だ。病気で入院をしていると云うから、致方《いたしかた》が無い。断念《あきら》めなよ。」
 と、黒髪ばかりは幾千代までも、早やその下に消えそうな、薄白んだ耳に口を寄せて、
「未来で会え、未来で会え。未来で会ったら一生懸命に縋着《すがりつ》いていて離れるな。己のような邪魔者の入らないように用心しろ。きっと離れるなよ。先生なんぞ持つな。
 己はこういう事とは知らなんだ。お前より早瀬の方が可愛いから、あれに間違いの無いように、怪我の無いようにと思ったが、可哀相な事をしたよ。
 早瀬に過失《あやまち》をさすまいと思う己の目には、お前の影は彼奴《あいつ》に魔が魅《さ》しているように見えたんだ。お前を悪魔だと思った、己は敵《かたき》だ。間《なか》をせい[#「せい」に傍点]たって処女《きむすめ》じゃない。真《まこと》逢いたくば、どんなにしても逢えん事はない。世間体だ、一所に居てこそ不都合だが、内証なら大目に見てやろうと思ったものを、お前たちだけに義理がたく、死ぬまで我慢をし徹《とお》したか。可哀相に。……今更卑怯な事は謂《い》わない、己を怨め、酒井俊蔵を怨め、己を呪《のろ》えよ!
 どうだ、自分で心を弱くして、とても活きられない、死ぬなんぞと考えないで、もう一度石に喰《くい》ついても恢復《なお》って、生樹《なまき》を裂いた己へ面当《つらあて》に、早瀬と手を引いて復讐《しかえし》をして見せる元気は出せんか、意地は無いか。
 もう不可《いけ》まいなあ。」
 と、忘れたようなお蔦の手を膝へ取って、熟《じっ》と見て、
「瘠《や》せたよ。一昨日《おととい》見た時よりまた半分になった。――これ、目を開《あ》きなよ、しっかりしな、己だ、分ったか、ああ先生だよ。皆《みんな》居る、妙も来ている。姉さん――小芳か、あすこに居るよ。
 なぜ、お前は気を長くして、早瀬が己ほどの者になるのを待たん、己でさえ芸者の情婦《いろ》は持余しているんだ、世の中は面倒さな。
 あの腰を突けばひょろつくような若い奴が、お前を内へ入れて、それで身を立って行かれるものか。共倒れが不便《ふびん》だから、剣突《けんつく》を喰わしたんだが、可哀相に、両方とも国を隔って煩らって、胸一つ擦《さす》って貰えないのは、お前たち何の因果だ。
 さぞ待っているだろうな、早瀬の来るのを。あれが来るから、と云って、お前、昨夜《ゆうべ》髪を結《い》ったそうだ。ああ、島田が好《よ》く出来た、己が見たよ。」
 と云う時、次の室《ま》で泣音《なくね》がした。続いてすすり泣く声が聞えたが、その真先《まっさき》だったのは、お蔦のこれを結った、髪結のお増であった。芸妓《げいこ》島田は名誉の婦《おんな》が、いかに、丹精をぬきんでたろう。
 上らぬ枕を取交えた、括蒲団《くくりぶとん》に一《いち》が沈んで、後毛《おくれげ》の乱れさえ、一入《ひとしお》の可傷《いたまし》さに、お蔦は薄化粧さえしているのである。
 お蔦は恥じてか、見て欲《ほし》かったか、肩を捻《ひね》って、髷《まげ》を真向きに、毛筋も透通るような頸《うなじ》を向けて、なだらかに掛けた小掻巻《こがいまき》の膝の辺《あたり》に、一波打つと、力を入れたらしく寝返りした。

       四十七

「似合った、似合った、ああ、島田が佳《よ》く出来た。早瀬なんかに分るものか。顔を見せな、さあ。」
 とじりりと膝を寄せて、その時、颯《さっ》と薄桃色の瞼《まぶた》の霑《うる》んだ、冷たい顔が、夜の風に戦《そよ》ぐばかり、蓐《しとね》の隈《くま》に俤《おもかげ》立つのを、縁から明取《あかりと》りの月影に透かした酒井が、
「誰か来て蛍籠を外しな、厭《いや》な色だ。」
「へへい、」と頓興な、ぼやけた声を出して、め[#「め」に傍点]組が継《つぎ》の当った千草色の半股引《はんももひき》で、縁側を膝立って来た――婦《おんな》たちは皆我を忘れて六畳に――中には抱合って泣いているのもあるので、惣助一人三畳の火鉢の傍《わき》に、割膝で畏《かしこま》って、歯を喰切《くいしば》った獅噛面《しがみづら》は、額に蝋燭《ろうそく》の流れぬばかり、絵にある燈台鬼という顔色《がんしょく》。時々病人の部屋が寂《しん》とするごとに、隣の女連の中へ、四ツ這《ばい》に顔を出して、
(死んだか、)と聞いて、女房のお増に流眄《しりめ》にかけられ、
(まだか、)と問うて、また睨《ね》めつけられ、苦笑いをしては引込《ひっこ》んで控えたのが――大先生の前なり、やがて仏になる人の枕許、謹しんで這って出て、ひょいと立上って蛍籠を外すと、居すくまった腰が据《すわ》らず、ひょろり、で、ドンと縁へ尻餅。魂が砕けたように、胸へ乱れて、颯と光った、籠の蛍に、ハット思う処を、
「何ですね、お前さん、」
 と鼻声になっている女房《かみさん》に剣呑《けんのみ》を食って、慌てて遁込《にげこ》む。
 この物音に、お蔦はまたぱっちりと目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》いて、心細く、寂しげに、枕を酒井に擦寄せると……
「皆《みんな》居る、寂しくはないよ。しかしどうだい。早瀬が来たら、誰も次の室《ま》へ行って貰って、こうやって、二人許りで、言いたいことがあるだろう。致方《しかた》が無い断念《あきら》めな。断念めて――
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