こは野原でございますか。」
「なぜ、貴女?」
「真中《まんなか》に恐しい穴がございますよ。」
「ああ、それは道端の井戸なんです。」
と透《すか》しながら早瀬が答えた。古井戸は地獄が開けた、大《おおい》なる口のごとくに見えたのである。
早瀬より、忍び足する夫人の駒下駄が、かえって戦《おのの》きに音高く、辿々《たどたど》しく四辺《あたり》に響いて、やがて真暗《まっくら》な軒下に導かれて、そこで留まった。が、心着いたら、心弱い婦《ひと》は、得《え》堪えず倒れたであろう、あたかもその頸《うなじ》の上に、例の白黒|斑《まだら》な狗《いぬ》が踞《うずくま》っているのである。
音訪《おとな》う間も無く、どたんと畳を蹴《け》て立つ音して、戸を開けるのと、ついその框《かまち》に真赤《まっか》な灯の、ほやの油煙に黒ずんだ小洋燈《こランプ》の見ゆるが同時で、ぬいと立ったは、眉の迫った、目の鋭い、細面《ほそおもて》の壮佼《わかもの》で、巾狭《はばぜま》な単衣《ひとえ》に三尺帯を尻下り、粋《いなせ》な奴《やっこ》を誰とかする、すなわち塾の(小使)で、怪! 怪! 怪! アバ大人を掏損《すりそ》こねた、万太《まんた》と云う攫徒《すり》である。
はたと主税と面《おもて》を合わせて、
「兄哥《あにい》!」
「…………」
「不可《いけね》えぜ。」と仮色《こわいろ》のように云った。
「何だ――馬鹿、お連がある。」
「やあ、先生、大変だ。」
「どう、大変。」
衝《つ》と入る。袂《たもと》に縋《すが》って、牲《にえ》の鳥の乱れ姿や、羽掻《はがい》を傷《いた》めた袖を悩んで、塒《ねぐら》のような戸を潜《くぐ》ると、跣足《はだし》で下りて、小使、カタリと後を鎖《さ》し、
「病人が冷くなったい。」
「ええ、」
「今駈出そうてえ処でさ。」
「医者か。」
「お医者は直ぐに呼んで来たがね、もう不可《いけね》えッて、今しがた帰ったんで。私《わっし》あ、ぼうとして坐っていましたが、何でもこりゃ先生に来て貰わなくちゃ、仕様がないと、今やっと気が附いて飛んで行こうと思った処で。」
「そんな法はない。死ぬなんて、」
と飛び込むと、坐ると同時《いっしょ》で、ただ一室《ひとま》だからそこが褥《しとね》の、筵《むしろ》のような枕許へ膝を落して、覗込《のぞきこ》んだが、慌《あわただ》しく居直って、三布蒲団《みのぶとん》を持上げて、骨の蒼《あお》いのがくッきり[#「くッきり」に傍点]見える、病人の仰向けに寝た胸へ、手を当てて熟《じっ》としたが、
「奥さん、」
と静《しずか》に呼ぶ。
道子が、取ったばかりの手拭を、引摺《ひきず》るように膝にかけて、振《ふり》を繕う遑《いとま》もなく、押並んで跪《ひざまず》いた時、早瀬は退《すさ》って向き直って、
「線香なんぞ買って――それから、種々《いろいろ》要るものを。」
「へい、宜《よ》うがす。」
ぼんやり戸口に立っていた小使は、その跣足《はだし》のまま飛んで出た。
と見れば、貞造の死骸《なきがら》の、恩愛に曳《ひ》かれて動くのが、筵に響いて身に染みるように、道子の膝は打震いつつ、幽《かすか》に唱名の声が漏れる。
「よく御覧なさいましよ。貴女も見せてお上げなさいよ。ああ、暗くって、それでは顔が、」
手洋燈を摺《ず》らして出したが、灯《あかり》が低く這って届かないので、裏が紺屋の物干の、破※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子《やぶれれんじ》の下に、汚れた飯櫃《めしびつ》があった、それへ載せて、早瀬が立って持出したのを、夫人が伸上るようにして、霑《うるみ》をもった目を見据え、現《うつつ》の面《おもて》で受取ったが、両方掛けた手の震えに、ぶるぶると動くと思うと、坂になった蓋《ふた》を辷《すべ》って、※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》と云う間に、袖に俯向《うつむ》いて、火を吹きながら、畳に落ちて砕けたではないか! 天井が真紫に、筵が赫《かっ》と赤くなった。
この明《あかり》で、貞造の顔は、活きて眼《まなこ》を開いたかと、蒼白《あおざめ》た鼻も見えたが、松明《たいまつ》のようにひらひらと燃え上る、夫人の裾の手拭を、炎ながら引掴《ひッつか》んで、土間へ叩き出した早瀬が、一大事の声を絞って、
「大変だ、帯に、」と一声。余りの事に茫《ぼう》となって、その時座を避けようとする、道子の帯の結目《むすびめ》を、引断《ひっき》れよ、と引いたので、横ざまに倒れた裳《もすそ》の煽《あお》り、乳《ち》のあたりから波打って、炎に燃えつと見えたのは、膚《はだえ》の雪に映る火をわずかに襦袢に隔てたのであった。トタンに早瀬は、身を投げて油の上をぐるぐると転げた。火はこれがために消えて、しばらくは黒白《あやめ》も分かず。阿部街道を戻り馬が、遥《はるか》に、ヒイインと嘶《いなな》く声。戸外《おもて》で、犬の吠ゆる声。
「可恐《おッそろし》い真暗ですね。」
品々を整えて、道の暗さに、提灯《ちょうちん》を借りて帰って来た、小使が、のそりと入ると、薄色の紋着を、水のように畳に流して、夫人はそこに伏沈んで、早瀬は窓をあけて、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子に腰をかけて、吻《ほっ》として腕をさすっていた。――猛虎肉酔初醒時《もうこにくにようてはじめてさむるとき》。揩磨苛痒風助威《かようをかいましてかぜいをたすく》。
廊下づたい
四十三
家の業でも、気の弱い婦《おんな》であるから、外科室の方は身震いがすると云うので、是非なく行《ゆ》かぬ事になっているが、道子は、両親の注意――むしろ命令で、午後十時前後、寝際には必ず一度ずつ、入院患者の病室を、遍《あまね》く見舞うのが勤めであった。
その時は当番の看護婦が、交代に二人ずつ附添うので、ただ(御気分はいかがですか、お大事になさいまし、)と、だけだけれども、心優しき生来《うまれつき》の、自《おのず》から言外の情が籠るため、病者は少なからぬ慰安を感じて、結句院長の廻診より、道子の端麗な、この姿を、待ち兼ねる者が多い。怪しからぬのは、鼻風邪ごときで入院して、貴女のお手ずからお薬を、と唸《うな》ると云うが、まさかであろう。
で――この事たるや、夫の医学士、名は理順《りじゅん》と云う――院長は余り賛成はしないのだけれども、病人を慰めるという仕事は、いかなる貴婦人がなすっても仔細《しさい》ない美徳であるし、両親もたって希望なり、不問に附して黙諾の体でいる。
ト今夜もばたばたと、上草履の音に連れて、下階《した》の病室を済ました後、横田の田畝《たんぼ》を左に見て、右に停車場《ステイション》を望んで、この向は天気が好いと、雲に連なって海が見える、その二階へ、雪洞《ぼんぼり》を手にした、白衣《びゃくえ》の看護婦を従えて、真中《まんなか》に院長夫人。雲を開いたように階子段《はしごだん》を上へ、髪が見えて、肩、帯が露《あらわ》れる。
質素《じみ》な浴衣に昼夜帯を……もっともお太鼓に結んで、紅鼻緒に白足袋であったが、冬の夜《よ》なぞは寝衣《ねまき》に着換えて、浅黄の扱帯《しごき》という事がある。そんな時は、寝白粉《ねおしろい》の香も薫る、それはた異香|薫《くん》ずるがごとく、患者は御来迎、と称《とな》えて随喜渇仰。
また実際、夫人がその風采《とりなり》、その容色《きりょう》で、看護婦を率いた状《さま》は、常に天使のごとく拝まれるのであったに、いかにやしけむ、近い頃、殊に今夜あたり、色艶|勝《すぐ》れず、円髷《まるまげ》も重そうに首垂《うなだ》れて、胸をせめて袖を襲《かさ》ねた状は、慎ましげに床し、とよりは、悄然《しょうぜん》と細って、何か目に見えぬ縛《いましめ》の八重の縄で、風に靡《なび》く弱腰かけて、ぐるぐると巻かれたよう。従って、前後を擁した二体の白衣も、天にもし有らば美しき獄卒の、法廷の高く高き処へ夫人を引立てて来たようである。
扉《ドア》を開放《あけはな》した室の、患者無しに行抜けの空は、右も左も、折から真白《まっしろ》な月夜で、月の表には富士の白妙《しろたえ》、裏は紫、海ある気勢《けはい》。停車場の屋根はきらきらと露が流れて輝く。
例に因って、室々へ、雪洞が入り、白衣が出で、夫人が後姿になり、看護婦が前に向き、ばたばたばた、ばたばたと規律正しい沈んだ音が長廊下に断えては続き、処々月になり、また雪洞がぽっと明《あか》くなって、ややあって、遥かに暗い裏階子《うらばしご》へ消える筈《はず》のが、今夜は廊下の真中《まんなか》を、ト一列になって、水彩色《みずさいしき》の燈籠の絵の浮いて出たように、すらすらこなたへ引返《ひっかえ》して来て、中程よりもうちっと表階子へ寄った――右隣が空いた、富士へ向いた病室の前へ来ると、夫人は立留って、白衣は左右に分れた。
順に見舞った中に、この一室だけは、行きがけになぜか残したもので。……
と見ると胡粉《ごふん》で書いた番号の札に並べて、早瀬主税と記してある。
道子は間《なか》に立って、徐《おもむろ》に左右を見返り、黙って目礼をして、ほとんど無意識に、しなやかな手を伸ばすと、看護婦の一人が、雪洞を渡して、それは両手を、一人は片手を、膝のあたりまで下げて、ひらりと雪の一団《ひとかたまり》。
ずッと離れて廊下を戻る。
道子は扉《ドア》に吸込まれた。ト思うと、しめ切らないその扉の透間から、やや背屈《せかが》みをしたらしい、低い処へ横顔を見せて廊下を差覗《さしのぞ》くと、表階子の欄干《てすり》へ、雪洞を中にして、からみついたようになって、二人|附着《くッつ》いて、こなたを見ていた白衣が、さらりと消えて、壇に沈む。
四十四
寝台《ねだい》に沈んだ病人の顔の色は、これが早瀬か、と思うほどである。
道子は雪洞を裾に置いて、帯のあたりから胸を仄《ほの》かに、顔を暗く、寝台に添うて彳《たたず》んで、心《しん》を細めた洋燈《ランプ》のあかりに、その灰のような面《おもて》を見たが、目は明かに開いていた。
ト思うと、早瀬に顔を背けて、目を塞いだが、瞳は動くか、烈しく睫毛《まつげ》が震えたのである。
ややあって、
「早瀬さん、私が分りますか。」
「…………」
「ようよう今日のお昼頃から、あの、人顔がお分りになるようにおなんなさいましたそうでございますね。」
「お庇様《かげさま》で。」
と確《たしか》に聞えた。が、腹でもの云うごとくで、口は動かぬ。
「酷《ひど》いお熱だったんでございますのねえ。」
「看護婦に聞きました。ちょうど十日間ばかり、全《まる》ッきり人事不省で、驚きました。いつの間にか、もう、七月の中旬《なかば》だそうで。」と瞑《ねむ》ったままで云う。
「宅では、東京の妹たちが、皆《みんな》暑中休暇で帰って参りました。」
少し枕を動かして、
「英吉君も……ですか。」
「いいえ、あの人だけは参りませんの。この頃じゃ家《うち》へ帰られないような義理になっておりますから、気の毒ですよ。
ああ、そう申せば、」と優しく、枕許の置棚を斜《ななめ》に見て、
「貴下は、まあ、さぞ東京へお帰りなさらなければならなかったんでございましょうに。あいにく御病気で、ほんとうに間が悪うございましたわね。酒井様からの電報は御覧になりましたの?」
「見ました、先刻はじめて、」
と調子が沈む。
「二通とも、」
「二通とも。」
「一通はただ(直ぐ帰れ。)ですが、二度目のには、ツタビョウキ(蔦病気)――かねて妹から承っておりました。貴下の奥さんが御危篤《ごきとく》のように存じられます。御内の小使さん、とそれに草深の妹とも相談しまして、お枕許で、失礼ですが、電報の封を解きまして、私の名で、貴下がこのお熱の御様子で、残念ですがいらっしゃられない事を、お返事申して置きました。ですが、まあ、何という折が悪いのでございましょう。ほんとうにお察し申しております。」
「……病気が幸です。達者で居たって、どの面《つら》さげて、先生はじめ、顔が合されますもんですか。」
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