ながら、
「私、どうしたら、そんな乱暴な人を友だちにしたんだか。」
と自から怪むがごとく独言《ひとりご》つと、
「不都合な方と知りながら、貴女と附合ってる私と同一《おんなじ》でしょう。」
「だって私は、貴下のために悪いようにとした事は一つも無いのに、貴下の方じゃ、私の身の立たないように、立たないようにと言うじゃありませんか。早瀬さんへ行くのが悪いんなら、(どうでもして下さい、御心まかせ。)何のって、そんな事が、譬《たと》えにも島山に言われるもんですか。
島山の方は、それで離縁になるとして、そうしたら、貴下、第一河野の家名はどうなると思うのよ。末代まで、汚点《しみ》がついて、系図が汚《けが》れるじゃありませんか。」
「すでに云々《うんぬん》が有るんじゃありませんか。それを秘《かく》そうとするんじゃありませんか。卑怯だと云うんです。」
「そんな事を云って、なぜ、貴下は、」
少し起返って、なお背向《うしろむ》きに、
「貴下にちっとも悪意を持っていない、こうして名誉も何も一所に捧げているような、」
と口惜《くや》しそうに、
「私を苦しめようとなさるんだろうねえ。」
「ちっとも苦しめやしませんよ。」
「それだって、乱暴な事を言ってさ、」
「貴女が困っているものを、何も好き好んで表向《おもてむき》にしようと言うんじゃない。不実だの、無情だの、私の身体《からだ》はどうなるの、とお言いなさるから、貴女の身体は、疑の晴れくもりで――制裁を請けるんだ、と言うんです。貴女ばかり、と言ったら不実でしょう。男が諸共に、と云うのに、ちっとも無情な事はありますまい。どうです。」
と言う顔を斜めに視て、
「ですから、そんな打破《ぶちこわ》しをしないでも、妙子さんさえ下さると、円満に納まるばかりか、私も、どんなにか気が易《やす》まって、良心の呵責《かしゃく》を免れることが出来ますッて云うのにね。肯《き》きますまい! それが無情だ、と云うんだわ。名誉も何も捧げている婦《おんな》の願いじゃありませんか、肯いてくれたって可いんだわ。」
「(名誉も何も)とおっしゃるんだ。」
「ああ、そうよ。」と捩向《ねじむ》いて清《すずし》く目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みひら》く。
「なぜその上、家も河野もと言わんのです。名誉を別にした家がありますか。家を別にした河野がありますか。貴女はじめ家門の名誉と云う気障《きざ》な考えが有る内は、情合は分りません。そういうのが、夫より、実家《さと》の両親《ふたおや》が大事だったり、他《ひと》の娘の体格検査をしたりするのだ。お妙さんに指もささせるもんですか。
お妙さんの相談をしようと云うんなら、先ず貴女から、名誉も家も打棄《うっちゃ》って、誰なりとも好いた男と一所になるという実証をお挙げなさい。」
と意気込んで激しく云うと、今度は夫人が、気の無い、疲れたような、倦《うん》じた調子で、
「そしてまた(結婚式は、安東村の、あの、乞食小屋見たような茅屋《あばらや》で挙げろ)でしょう。貴下はまるッきり私たちと考えが反対《あべこべ》だわ。何だか河野の家を滅ぼそうというような様子だもの、家に仇《あだ》する敵《かたき》だわ。どうして、そんな人を、私厭でないんだか、自分で自分の気が知れなくッてよ。ああ、そして、もう、私、慈善市《バザア》へ行かなくッては。もう何でも可いわ! 何でも可いわ。」
夫人と……別れたあとで、主税はカッと障子を開けて、しばらく天を仰いでいたが、
「ああ、今日はお妙さんの日だ。」と、呟《つぶや》いて仰向けに寝た――妙子の日とは――日曜を意味したのである。
宵闇
四十
同《おなじ》、日曜の夜《よ》の事で。
日が暮れると、早瀬は玄関へ出て、框《かまち》に腰を掛けて、土間の下駄を引掛けたなり、洋燈《ランプ》を背後《うしろ》に、片手を突いて長くなって一人でいた。よくぞ男に生れたる、と云う陽気でもなく、虫を聞く時節でもなく、家は古いが、壁から生えた芒《すすき》も無し、絵でないから、一筆|描《が》きの月のあしらいも見えぬ。
ト忌々《いみいみ》しいと言えば忌々しい、上框《あがりがまち》に、灯《ともしび》を背中にして、あたかも門火《かどび》を焚いているような――その薄あかりが、格子戸を透《すか》して、軒で一度暗くなって、中が絶えて、それから、ぼやけた輪を取って、朦朧《もうろう》と、雨曝《あまざれ》の木目の高い、門の扉《と》に映って、蝙蝠《こうもり》の影にもあらず、空を黒雲が行通うか何ぞのように、時々、むらむらと暗くなる……また明《あかる》くなる。
目も放さず、早瀬がそれを凝《じっ》と視《なが》める内に、濁ったようなその灯影が、二三度ゆらゆらと動いて、やがて礫《つぶて》した波が、水の面《おも》に月輪を纏《まと》めた風情に、白やかな婦《おんな》の顔がそこを覗《のぞ》いた。
門の扉《と》が開《あ》くでもなしに……続いて雪のような衣紋《えもん》が出て、それと映合《うつりあ》ってくッきりと黒い鬢《びん》が、やがて薄お納戸の肩のあたり、きらりと光って、帯の色の鮮麗《あざやか》になったのは――道子であった。
門に立忍んで、密《そ》と扉を開けて、横から様子を伺ったものである。
一目見ると、早瀬は、ずいと立って、格子を開けながら、手招ぎをする。と、立直って後姿になって、AB《アアベエ》横町の左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す趣であったが、うしろ向きに入って、がらがらと後を閉めると、三足ばかりを小刻みに急いで来て、人目の関には一重も多く、遮るものが欲しそうに、また格子を立てた。
「ようこそ、」と莞爾《にっこり》して云う。
姉夫人は、口を、畳んだ手巾《ハンケチ》で圧《おさ》えたが、すッすッと息が忙《せわ》しく、
「誰方《どなた》も……」
「誰も。」
「小使さんは?」
ともう馴染んだか尋ね得た。
「あれは朝っから、貞造の方へ遣ってあります。目の離せません容態ですから。」
「何から何まで難有《ありがと》う存じます……一人の親を……済みませんですねえ。」
とその手巾が目に障る。
「済まないのは私こそ。でもよく会場が抜けられましたな。」
「はい、色艶が悪いから、控所の茶屋で憩《やす》むように、と皆さんが、そう言って下さいましたから、好《い》い都合に、点燈頃《あかりのつきごろ》の混雑紛れに出ましたけれど、宅の車では悪うございますから、途中で辻待のを雇いますと、気が着きませんでしたが、それが貴下《あなた》、片々|蠣目《かきめ》のようで、その可恐《こわ》らしい目で、時々振返っては、あの、幌《ほろ》の中を覗きましてね、私はどんなに気味が悪うござんしてしょう。やっとこの横町の角で下りて、まあ、御門まで参りましたけれども、もしかお客様でも有っては悪いから、と少時《しばらく》立っておりましたの。」
「お心づかい、お察し申します。」
と頭《こうべ》を下げて、
「島山さんの、お菅さんには。」
「今しがた参りました。あんなに遅くまで――こちら様に。」
「いいえ。」
「それでは道寄りをいたしましたのでございましょう。灯《あかり》の点《つ》きます少し前に見えましたっけ、大勢の中でございますから、遠くに姿を見ましたばかりで、別に言《ことば》も交わさないで、私は急いで出て参りましたので。」
「成程、いや、お茶も差上げませんで失礼ですが、手間が取れちゃまたお首尾が悪いと不可《いけ》ません。直ぐに、これから、」
「どうぞそうなすって下さいまし、貴下、御苦労様でございますねえ。」
「御苦労どころじゃありません。さあ、お供いたしましょう。」
ふと心着いたように、
「お待ちなさいよ、夫人《おくさん》。」
四十一
早瀬は今更ながら、道子がその白襟の品好く麗《うるわ》しい姿を視《なが》めて、
「宵暗《よいやみ》でも、貴女《あなた》のその態《なり》じゃ恐しく目に立って、どんな事でまたその蠣目の車夫なんぞが見着けまいものでもありません。ちょいと貴女|手巾《ハンケチ》を。」
と慌《あわただ》しい折から手の触るも顧みず、奪うがごとく引取って、背後《うしろ》から夫人の肩を肩掛《ショオル》のように包むと、撫肩はいよいよ細って、身を萎《すく》めたがなお見|好《よ》げな。
懐中《ふところ》からまた手拭《てぬぐい》を出して、夫人に渡して、
「姉《あね》さん冠《かぶ》りと云うのになさい、田舎者がするように。」
「どうせ田舎者なんですもの。」
と打傾いて、髷《まげ》にちょっと手を当てて、
「こうですか。」白地を被《かぶ》って俯向《うつむ》けば、黒髪こそは隠れたれ、包むに余る鬢《びん》の馥《か》の、雪に梅花を伏せたよう。
主税は横から右瞻左瞻《とみこうみ》て、
「不可《いけな》い、不可い、なお目立つ。貴女、失礼ですが、裾を端折《はしょ》って、そう、不可《いか》んな。長襦袢《ながじゅばん》が突丈《ついたけ》じゃ、やっぱり清元の出語《でがたり》がありそうだ。」
と口の裡《うち》に独言《つぶや》きつつ、
「お気味が悪くっても、胸へためて、ぐっと上げて、足袋との間を思い切って。ああ、おいたわしいな。」
「厭《いや》でございますね。」
「御免なさいよ。」
と言うが疾《はや》いか、早瀬の手は空を切って、体を踞《しゃが》んだと思うと、
「あれ、」
かっとなって、ふらふらと頭《つむり》重く倒れようとした――手を主税の肩に突いて、道子はわずかに支えたが、早瀬の掌《たなそこ》には逸早く壁の隅なる煤《すす》を掬《すく》って、これを夫人の脛《はぎ》に塗って、穂にあらわれて蔽《おお》われ果てぬ、尋常なその褄《つま》はずれを隠したのであった。
「もう、大丈夫、河野の令夫人《おくがた》とは見えやしない。」
と、框の洋燈《ランプ》を上から、フッ!
留南奇《とめき》を便《たより》に、身を寄せて、
「さあ、出掛けましょう。」
胸に当った夫人の肩は、誘わるるまで、震えていた。
この横町から、安東村へは五町に足りない道だけれども、場末の賤《しず》が家ばかり。時に雨もよいの夏雲の閉した空は、星あるよりも行方|遥《はる》かに、たまさか漏るる灯の影は、山路なる、孤家《ひとつや》のそれと疑わるる。
名門の女子深窓に養われて、傍《かたわら》に夫無くしては、濫《みだ》りに他と言葉さえ交えまじきが、今日朝からの心の裡《うち》、蓋《けだ》し察するに余《あまり》あり。
我は不義者の児《こ》なりと知り、父はしかも危篤《きとく》の病者。逢うが別れの今世《こんじょう》に、臨終《いまわ》のなごりを惜《おし》むため、華燭《かしょく》銀燈輝いて、見返る空に月のごとき、若竹座を忍んで出た、慈善市《バザア》の光を思うにつけても、横町の後暗さは冥土《よみじ》にも増《まさ》るのみか。裾端折り、頬被《ほほかぶり》して、男――とあられもない姿。ちらりとでも、人目に触れて、貴女は、と一言聞くが最後よ、活きてはいられない大事の瀬戸。辛《から》く乗切って行《ゆ》く先は……実《まこと》の親の死目である。道子が心はどんなであろう。
大巌山の幻が、闇《やみ》の気勢《けはい》に目を圧《おさ》えて、用水の音|凄《すさま》じく、地を揺《ゆ》るごとく聞えた時、道子は俤《おもかげ》さえ、衣《きぬ》の色さえ、有るか無きかの声して、
「夢ではないのでしょうかしら。宙を歩行《ある》きますようで、ふらふらして、倒れそうでなりません。早瀬さん、お袖につかまらして下さいまし。」
「しっかりと! 可《い》い塩梅《あんばい》に人通りもありませんから。」
人は無くて、軒を走る、怪しき狗《いぬ》が見えたであろう。紺屋の暖簾の鯛の色は、燐火《おにび》となって燃えもせぬが、昔を知ればひづめの音して、馬の形も有りそうな、安東村へぞ着きにける。
四十二
道子は声も※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うように、
「こ
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