自分で自分を酒で殺しちゃ、厭じゃありませんか、まあ、」
と一際|低声《こごえ》で、
「ちょいと、いかな事《こッ》ても小待合へなんぞ倒込むんですって。監督《おめつけ》の叔父さんから内々注意があるもんだから、もう疾《とっ》くに兄さんへは家《うち》でお金子《かね》を送らない事にして、独立で遣れッて名義だけれども、その実、勘当同様なの。
この頃じゃ北町(桐楊塾)へも寄り着かないんですって。
だってどこに転がっていたって、皆《みんな》お金子が要るんでしょう。どこから出て? いずれ借りるんだわ。また河野の家の事を知っていて、高利で貸すものがあるんだから困っちまう。千と千五百と纏《まとま》ったお金子で、母様が整理を着けたのも二度よ。洋行させる費用に、と云って積立ててあった兄さんの分は、とうの昔無くなって、三度目の時には皆私たち妹の分にまで、手がついたんじゃありませんか。
妙子さんの話がはじまってからは、ちょうど私も北町へ行っていて知っているけれど、それは、気の毒なほど神妙になったのに。……
もともと気の小さい、懐育ちのお坊ちゃんなんだから、遊蕩《あそび》も駄々で可《よ》かったんだけれど、それだけにまた自棄になっちゃ乱暴さが堪《たま》らないんだもの。
病院の義兄《にいさん》は養子だし、大勢の兄弟|中《なか》に、やっと学位の取れた、かけ替えのない人を、そんなにしてしまっちゃ、それは家《うち》でもほんとうに困るのよ。
早瀬さん、貴下の心一つで、話が纏まるんじゃありませんか。私が頼むんだから助けると思って肯《き》いて頂戴、ねえ……それじゃ、あんまり貴下薄情よ。」
「ですから、ですから。」
と圧《おさ》えるように口を入れて、
「決《け》して厭だとは言いません。厭だとは言いやしない。これからでも飛んで行って、先生に話をして結納を持って帰りましょう。」
事もなげに打笑って、
「それじゃ反対《あべこべ》だった。結納はこちらから持って行くんでしたっけ。」
「そのかわりまた、(あの安東村の紺屋の隣家《となり》の乞食小屋で結婚式を挙げろ)ッて言うんでしょう。貴下はなぜそう依怙地《いこじ》に、さもしいお米の価《ね》を気にするようなことを言うんだろう。
ほんとうに串戯《じょうだん》ではないわ! 一家の浮沈と云ったような場合ですからね。私もどんなに苦労だか知れないんだもの。御覧なさい[#「御覧なさい」は底本では「御覧さない」]、痩《や》せたでしょう。この頃じゃ、こちらに、どんな事でもあるように、島山(理学士)を見ると、もうね、身体《からだ》が萎《すく》むような事があるわ。土間へ駈下りて靴の紐を解いたり結んだりしてやってるじゃありませんか。
跪《ひざまず》いて、夫の足に接吻《キッス》をする位なものよ。誰がさせるの、早瀬さん。――貴下の意地ひとつじゃありませんか。
ちっとは察して、肯いてくれたって、満更罰は当るまいと、私思うんですがね。」
机に凭《もた》れて、長くなって笑いながら聞いていた主税が、屹《きっ》と居直って、
「じゃ貴女は、御自分に面じて、お妙さんを嫁に欲《ほし》いと言うんですか。」
「まあ……そうよ。」
「そう、それでは色仕掛になすったんだね。」
三十七
「怒ったの、貴下、怒っちゃ厭よ、私。貴下はほんとうにこの節じゃ、どうして、そんなに気が強くなったんだろうねえ。」
「貴女が水臭い事を言うからさ。」
「どっちが水臭いんだか分りはしない。私はまさか、夜《よる》内を出るわけには行《ゆ》かず、お稽古に来たって、大勢|入込《いれご》みなんだもの。ゆっくりお話をする間も無いじゃありませんか。
過日《いつか》何と言いました。あの合歓の花が記念だから、夜中にあすこへ忍んで行く――虫の音や、蛙《かわず》の声を聞きながら用水越に立っていて、貴女があの黒塀の中から、こう、扱帯《しごき》か何ぞで、姿を見せて下すったら、どんなだろう。花がちらちらするか、闇《やみ》か、蛍か、月か、明星か。世の中がどんな時に、そんな夢が見られましょう――なんて串戯《じょうだん》云うから、洗濯をするに可いの、瓜が冷せて面白いのッて、島山にそう云って、とうとうあすこの、板塀を切抜いて水門を拵《こしら》えさせたんだわ。
頭痛がしてならないから、十畳の真中《まんなか》へ一人で寝て見たいの、なんのッて、都合をするのに、貴下は、素通りさえしないじゃありませんか。」
「演劇《しばい》のようだ。」
と低声《こごえ》で笑うと、
「理想実行よ。」と笑顔で言う。
「どうして渡るんです。」
「まさか橋をかける言種《いいぐさ》は、貴下、無いもの。」
「だから、渡られますまい。」
「合歓の樹の枝は低くってよ。掴《つかま》って、お渡んなさいなね。」
「河童《かっぱ》じゃあるまいし、」
「ほほほほ、」
と今度は夫人の方が笑い出したが。
「なにしろ、貴下は不実よ。」
「何が不実です。」
「どうかして下さいな。」
――更《あらたま》って――
「妙子さんを。」
「ですから色仕掛けか、と云うんです。」
「あんな恐い顔をして、(と莞爾《にっこり》して。)ほんとうはね、私……自ら欺《あざ》むいているんだわ。家のために、自分の名誉を犠牲《ぎせい》にして、貴下から妙子さんを、兄さんの嫁に貰おう、とそう思ってこちらへ往来《ゆきき》をしているの。
でなくって、どうして島山の顔や、母様の顔が見ていられます。第一、乳母《ばあや》にだって面《おもて》を見られるようよ。それにね、なぜか、誰よりも目の見えない娘が一番恐いわ。母さん、と云って、あの、見えない目で見られると、悚然《ぞっと》してよ。私は元気でいるけれど、何だか、そのために生身を削られるようで瘠《や》せるのよ。可哀相だ、と思ったら、貴下、妙子さんを下さいな。それが何より私の安心になるんです。……それにね、他《ほか》の人は、でもないけれど、母様がね、それはね、実に注意深いんですから、何だか、そうねえ、春の歌留多《かるた》会時分から、有りもしない事でもありそうに疑《うたぐ》っているようなの。もしかしたら、貴下私の身体《からだ》はどうなると思って? ですから妙子さんさえ下されば、有形にも無形にも立派な言訳になるんだわ。ひょっとすると、母様の方でも、妙子さんの為にするのだ、と思っているのかも知れなくってよ。顔さえ見りゃ、(私がどうかして早瀬さんに承知させます。)と、母様が口を利かない先にそう言って置くから。よう、後生だから早瀬さん。」
言い言い、縋《すが》るように言う。
「詰らん言《こと》を。先生のお嬢さんを言訳に使って可いもんですか。」
「そうすると、私もう、母さんの顔が見られなくなるかも知れませんよ。」
「僕だって活きて二度と、先生の顔が見られないように……」と思わず拳《こぶし》を握ったのを、我を引緊《ひきし》められたごとくに、夫人は思い取って、しみじみ、
「じゃ、私の、私の身体はどうなって?」
「訳は無い、島山から離縁されて、」
「そんな事が、出来るもんですか。」
「出来ないもんですか。当前《あたりまえ》だ、」
と自若として言うと、呆れたように、また……莞爾《にっこり》、
「貴下はどうしてそうだろう。」
三十八
「どうもこうもありはしません、それが当前じゃありませんか。義、周の粟を食《くら》わずとさえ云うんだ。貴女、」
と主税は澄まして言い懸けたが、常《ただ》ならぬ夫人の目の色に口を噤《つぐ》んだ。菅子は息急《いきぜわ》しい胸を圧《おさ》えるのか、乳《ち》の上へ手を置いて、
「何だって、そりゃあんまりだわ、早瀬さん、」
と、ツンとする。
「不都合ですとも! 島山さんが喜ばないのに、こうして節々おいでなさるんです。
それでいて、家庭の平和が保てよう法は無い。実はこうこうだ、と打明けて、御主人の意見にお任せなさい。私もまた卑怯な覚悟じゃありません。事実明かに、その人の好まない自分の許《とこ》へ令夫人《おくがた》をお寄せ申すんだから、謹んで島山さんの思わくに服するんだ。
だから貴女もそうなさい。懊悩《おうのう》も煩悶《はんもん》も有ったもんか。世の中には国家の大法を犯し、大不埒《だいふらち》を働いて置いて、知らん顔で口を拭いて澄ましていようなどと言う人があるが、間違っています。」
夫人はこれを戯《たわむれ》のように聞いて、早瀬の言《ことば》を露も真《まこと》とは思わぬ様子で、
「戯談《じょうだん》おっしゃいよ! 嘘にも、そんな事を云って、事が起ったら子供たちはどうするの?」
と皆まで言わせず、事も無げに答えた。
「無論、島山さんの心まかせで、一所に連れて出ろと、言われりゃ連れて出る。置いて行けとなら、置いて……」
「暢気《のんき》で怒る事も出来はしない。身に染みて下さいな、ね……」
「何が暢気だろう、このくらい暢気でない事はない。小使と私と二人口でさえ、今の月謝の収入じゃ苦しい処へ、貴女方親子を背負《しょ》い込むんだ。静岡は六升代でも痩腕にゃ堪《こた》えまさ。」
余《あまり》の事と、夫人は凝《じっ》と瞻《みまも》って、
「私がこんなに苦労をするのに、ほんとに貴下は不実だわ。」
「いざと云う時、貴女を棄てて逐電《ちくてん》でもすりゃ不実でしょう。胴を据えて、覚悟を極《き》めて、あくまで島山さんが疑って、重ねて四ツにするんなら、先へ真二《まっぷた》ツになろうと云うのに、何が不実です。私は実は何にも知らんが、夫人《おくさん》が御勝手に遊びにおいでなさるんだなんて言いはしない。」
「そう云ってしまっては、一も二も無いけれど。」
「また、一も二も無いんですから、」
「だって世の中は、そう貴下の云うようには参りませんもの。」
「ならんのじゃない、なる、が、勝手にせんのだ。恋愛は自由です、けれども、こんな世の中じゃ罪になる事がある。盗賊《どろぼう》は自由かも知れん、勿論罪になる。人殺、放火《つけび》、すべて自由かも知れんが、罪になります。すでにその罪を犯した上は、相当の罰を受けるのがまた当前《あたりまえ》じゃありませんか。愚図々々《ぐずぐず》塗秘《ぬりかく》そうとするから、卑怯未練な、吝《けち》な、了見が起って、他《ひと》と不都合しながら亭主の飯を食ってるような、猫の恋になるのがある。しみったれてるじゃありませんか。度胸を据えて、首の座へお直んなさい。私なんざ疾《と》くに――先生……には面《おもて》は合わされない、お蔦……の顔も見ないものと思っている。この上は、どんなことだって恐れはしません。
それに貴女は、島山さんに不快を感じさせながら、まだやっぱり、夫には貞女で、子には慈悲ある母親で、親には孝女で、社会の淑女で、世の亀鑑《きかん》ともなるべき徳を備えた貴婦人顔をしようとするから、痩せもし、苦労もするんです。
浮気をする、貞女、孝女、慈母、淑女、そんな者があるものか。」
「じゃ……私を、」
と擦寄って、
「不埒と言わないばッかりね。」
さすがに顔の色をかえて屹《きっ》と睨《にら》むと、頷《うなず》いて、
「同時に私だって、」
と笑って言う。
その肩を突いて、
「まあ、仕ようの無い我儘《わがまま》だよ。」
三十九
「貴下は始めからそうなんだわ。……
道学者の坂田(アバ大人)さんが、兄さんの媒口《なこうどぐち》を利くのが癪《しゃく》に障るからって、(攫徒《すり》の手つだいをして、参謀本部も諭旨免官になりました。攫徒は、その時の事を恩にして、警察では、知らない間に袂《たもと》へ入れて置いて逆捩《さかねじ》を食わしたように云ってくれたけれど、その実は、知っていて攫徒の手から紙入を受取ってやったんだ。それで宜《よろ》しくばお稽古にお出でなさい、早瀬主税は攫徒の補助をした東京の食詰者《くいつめもの》です。)とこの塾を開く時、千鳥座かどこかで公衆に演説をする、と云った人だもの――私が留めたから止したけれど……」
早瀬の胸のあたりに、背向《うしろむ》きになって、投げ出した褄《つま》を、熟《じっ》と見
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