今日は、」
 と少し打傾いて、姉夫人が、物優しく声をかける。
「ひゃあ、」と打魂消《うったまげ》て棒立ちになったは、出入《ではい》りをする、貴婦人の、自分にこんな様子をしてくれるのは、ついぞ有った験《ためし》が無いので。
 車夫が門外から飛込んで来て駒下駄を直す。
「AB横町でしたかね。あすこへ廻りますから、」
「へい、へい、ペロペロの先生の。」と心得たるものである。

       三十一

 早瀬は、妹が連れて父の住居《すまい》へも来れば病院へも二三度来て知っているが、新聞にまで書いた、塾の(小使)と云う壮佼《わかいもの》はどんなであろう。男世帯だと云うし、他に人は居ないそうであるから、取次にはきっとその(小使)が出るに違いない、と籠勝《こもりがち》な道子は面白いものを見もし聞《きき》もしするような、物珍らしい、楽しみな、時めくような心持《ここち》もして、早や大巌山が幌《ほろ》に近い、西草深のはずれの町、前途《さき》は直ぐに阿部の安東村になる――近来《ちかごろ》評判のAB横町へ入ると、前庭に古びた黒塀を廻《めぐ》らした、平屋の行詰った、それでも一軒立ちの門構《もんがまえ》、低く傾いたのに、独語教授、と看板だけ新しい。
 車を待たせて、立附けの悪い門をあければ、女の足でも五歩《いつあし》は無い、直《じ》き正面の格子戸から物静かに音ずれたが、あの調子なれば、話声は早や聞えそうなもの、と思う妹の声も響かず、可訝《おかし》な顔をして出て来ようと思ったその(小使)でもなしに、車夫のいわゆるぺろぺろの先生、早瀬主税、左の袖口の綻《ほころ》びた広袖《どてら》のような絣《かすり》の単衣《ひとえ》でひょいと出て、顔を見ると、これは、とばかり笑み迎えて、さあ、こちらへ、と云うのが、座敷へ引返《ひっかえ》す途中になるまで、気疾《きばや》に引込んでしまったので、左右《とこう》の暇《いとま》も無く、姉夫人は鶴が山路に蹈迷《ふみまよ》ったような形で、机だの、卓子《テイブル》だの、算を乱した中を拾って通った。
 菅子さんは、と先ず問うと、まだ見えぬ。が、いずれお立寄りに相違ない。今にも威勢の可い駒下駄の音が聞えましょう。格子がからりと鳴ると、立処《たちどころ》にこの部屋へお姿が露《あらわ》れますからお休みなさりながらお待ちなさい、と机の傍《わき》に坐り込んで、煙草《たばこ》を喫《の》もうとして、打棄《うっちゃ》って、フイと立って蒲団を持出すやら、開放《あけはな》しましょう、と障子を押開《おっぴら》いたかと思うと、こっちの庭がもうちっとあると宜《よろ》しいのですが、と云うやら。散らかっておりまして、と床の間の新聞を投《ほう》り出すやら。火鉢を押出して突附けるかとすれば、何だ、熱いのに、と急いでまた摺《ずら》すやら。なぜか見苦しいほど慌《あわただ》しげで、蜘蛛《くも》の囲《す》をかけるように煩《うるさ》く夫人の居まわりを立ちつ居つ。間には口を続けて、よくいらっしゃいました、ようこそおいで、思いがけない、不思議な御方が、不思議だ、不思議だ、と絶《たえ》ず饒舌《しゃべ》ったのである。
「まあ、まあ、どうぞ、どうぞ、」
 とその中《うち》に落着いた夫人もつい、口早になって、顔を振上げながら、ちと胸を反《そ》らして、片手で煙を払うような振《ふり》をした。
 早瀬はその時、机の前の我が座を離れて、夫人の背後《うしろ》に突立《つった》っていたので、上下《うえした》に顔を見合わせた。余り騒がれたためか、内気な夫人の顔《かんばせ》は、瞼《まぶた》に色を染めたのである。
 と、早瀬は人間が変ったほど、落着いて座に返って、徐《おもむろ》に巻莨《まきたばこ》を取って、まだ吸いつけないで、ぴたりと片手を膝に支《つ》いた、肩が聳《そび》えた。
「夫人《おくさん》、貴女はこれから慈善市《じぜんし》へいらしって、貧者《びんぼうにん》のためにお働きなさるんですねえ。」
 と沈んで云う。
 顔を見詰められたので、睫毛《まつげ》を伏せて、
「はい、ですが私はただお手伝いでございます。」
「お願いがございます。」
 と匐《のめ》るがごとく、主税がはたと両手を支いた。
 余り意外な事の体に、答うる術《すべ》なく、黙って流眄《ながしめ》に見ていたが、果しなく頭《こうべ》も擡《もた》げず、突いた手に畳を掴《つか》んだ憂慮《きづかわ》しさに、棄ても置かれぬ気になって、
「貴下、まあ、更《あらた》まって何でございますの。」
 とは云ったが、思入った人の体に、気味悪くもなって、遁腰《にげごし》の膝を浮かせる。
「失礼な事を云うようですが、今日の催《もよおし》はじめ、貴女方のなさいます慈善は、博くまんべんなく情《なさけ》をお懸けになりますので、旱《ひでり》に雨を降らせると同様の手段。萎《な》えしぼんだ草樹も、その恵《めぐみ》に依って、蘇生《いきかえ》るのでありますが、しかしそれは、広大無辺な自然の力でなくっては出来ない事で、人間|業《わざ》じゃ、なかなか焼石へ如露《じょろ》で振懸けるぐらいに過ぎますまい。」

       三十二

「広く行渉《ゆきわた》るばかりを望んで、途中で群消《むらぎ》えになるような情を掛けずに、その恵の露を湛《たた》えて、ただ一つのものの根に灌《そそ》いで、名もない草の一葉だけも、蒼々《あおあお》と活かして頂きたい。
 大勢寄ってなさる仕事を、貴女方、各々《めいめい》御一人|宛《ずつ》で、専門に、完全に、一|人《にん》を救って下さるわけには参りませんか。力が余れば二人です、三人です、五人ですな。余所《よそ》の子供の世話を焼く隙《ひま》に、自分の児《こ》に風邪を感《ひ》かせないように、外国の奴隷に同情をする心で、御自分お使いになる女中を勦《いたわ》ってやって欲しいんですが、これじゃ大掴《おおづか》みのお話です、何もそれをかれこれ申上げるわけではないのです。
 ところが、差当り、今目の前に、貴女の一雫《ひとしずく》の涙を頂かないと、死んでも死に切れない、あわれな者があるんです。
 この事に就きましては、私《わたくし》は夜の目も合わないほど心を苦めまして。」
 とようよう少し落着いて、
「前《ぜん》から、貴女の御憐愍《ごれんみん》を願おうと思っていたんですけれど、島山さんのと違って、貴女には軽々《かろがろ》しくお目に懸《かか》る事も出来ませんし、そうかと云って、打棄《うっちゃ》って置けば、取返しのなりません一大事、どうしようかと存じておりました処へ、実《まこと》に何とも思いがけない、不思議な御光来《おいで》で、殊にそれが慈善会にいらっしゃる途中などは、神仏の引合わせと申しても宜しいのです。
 どうぞ、その、遍《あまね》く御施しになろうという如露の水を一雫、一滴で可《よ》うございます、私《わたくし》の方へお配分《すそわけ》なすってくださるわけには参りませんか。
 御存じの風来者でありますけれども、早瀬が一生の恩に被《き》ます。」
 と拳《こぶし》を握り緊《し》めて云うのを、半ば驚き、半ば呆れ、且つ恐れて聞いていたようだった。重かった夫人の眉が、ここに至ると微笑《ほほえみ》に開けて、深切に、しかし躾《たしな》めるような優しい調子で、
「お金子《かね》が御入用なんでございますか。」
 と胸へ、しなやかに手を当てたは、次第に依っては、直《すぐ》にも帯の間へ辷《すべ》って、懐紙《ふところがみ》の間から華奢《きゃしゃ》な(嚢物《ふくろもの》)の動作《こなし》である。道子はしばしば妹の口から風説《うわさ》されて、その暮向《くらしむき》を知っていた。
 ト早瀬の声に力が入って、
「金子《かね》にも何にも、私《わたくし》が、自分の事ではありません。」
「まあ、失礼な事を云って、」
 と襟を合わせて面《おもて》を染め、
「どうしましょう私は。では貴下の事ではございませんので。」
「ええ、勿論、救って頂きたい者は他《ほか》にあるんです。」
「どうぞ、あの、それは島山のに御相談下さいまし。私もまた出来ますことなら、蔭で――お手伝いいたしましょうけれど、河野(医学士)が、喧《やかま》しゅうございますから。」
 ……差俯向《さしうつむ》いて物寂しゅう、
「私が自分では、どうも計らい兼ねますの。それには不調法でもございますし……何も、妹の方が馴れておりますから。」
「いや、貴女でなくては不可《いか》んのです。ですから途方に暮れます。その者は、それにもう死にかかった病人で、翌日《あす》も待たないという容体なんです。
 六十近い老人で、孫子はもとより、親類《みより》らしい者もない、全然《まるっきり》やもめで、実際形影相弔うというその影も、破蒲団《やぶれぶとん》の中へ消えて、骨と皮ばかりの、その皮も貴女、褥摺《とこず》れに摺切れているじゃありませんか。
 日の光も見えない目を開いて、それでただ一目、ただ一目、貴女、夫人《おくさん》の顔が見たいと云います。」
「ええ、」
「御介抱にも及びません、手を取って頂くにも及びません、言《ことば》をお交わし下さるにも及びません、申すまでもない、金銭の御心配は決して無いので。真暗《まっくら》な地獄の底から一目貴女を拝むのを、仏とも、天人とも、山の端《は》の月の光とも思って、一生の思出に、莞爾《にっこり》したいと云うのですから、お聞届け下さると、実に貴女は人間以上の大善根をなさいます。夫人《おくさん》、大慈大悲の御心持で、この願いをお叶え下さるわけには参りませんか、十分間とは申しません。」
 と、じりじりと寄ると、姉夫人、思わず膝を進めつつ、
「どこの、どんな人でございますの。」
「直《じ》きこの安東《あんとう》村に居るんです。貞造と申して、以前御宅の馬丁《べっとう》をしたもので、……夫人《おくさん》、貴女の、実の……御父上《おとうさん》……」

       三十三

「その……手紙を御覧なさいましたら、もうお疑はありますまい。それは貴女の御父上《おとうさん》、英臣《ひでおみ》さんが、御出征中、貴女の母様《おっかさん》が御宅の馬丁貞造と……」
 早瀬はちょっと言《ことば》を切って……夫人がその時、わななきつつ持つ手を落して、膝の上に飜然《ひらり》と一葉、半紙に書いた女文字。その玉章《たまずさ》の中には、恐ろしい毒薬が塗籠《ぬりこ》んででもあったように、真蒼《まっさお》になって、白襟にあわれ口紅の色も薄れて、頤《おとがい》深く差入れた、俤《おもかげ》を屹《きっ》と視て、
「……などと云う言《ことば》だけも、貴女方のお耳へ入れられる筈《はず》のものじゃありません、けれども、差迫った場合ですから、繕って申上げる暇《いとま》もありません。
 で、そのために貴女がおできなすったんで、まだお腹《はら》にいらっしゃる間には、貴女の母様《おっかさん》が水にもしようか、という考えから、土地に居ては、何かにつけて人目があると、以前、母様をお育て申した乳母が美濃|安八《あはち》の者で、――唯今島山さんの玄関に居る書生は孫だそうです。そこへ始末をしに行ってお在《いで》なすった間に、貞造へお遣わしなすったお手紙なんです。
 馬丁はしていたが、貞造はしかるべき禄を食《は》んだ旧藩の御馬廻の忰《せがれ》で、若気の至りじゃあるし、附合うものが附合うものですから、御主人の奥様《おくさん》と出来たのを、嬉しい紛れ、鼻で指をさして、つい酒の上じゃ惚気《のろけ》を云った事もあるそうですが、根が悪人ではないのですから、児《こ》をなくすという恐《おそろし》い相談に震い上って、その位なら、御身分をお棄てなすって、一所に遁《に》げておくんなさい。お肯入《ききい》れ無く、思切った業《わざ》をなさりゃ、表向きに坐込む、と変った言種《いいぐさ》をしたために、奥さんも思案に余って、気を揉んでいなすった処へ、思いの外用事が早く片附いて、英臣さんが凱旋《がいせん》でしょう。腹帯にはちっと間が在ったもんだから、それなりに日が経《た》って、貴女は九月児《ここのつきご》でお在《いで》なさる。
 が、世間じゃ、ああ、よくお育ちなすった、
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