で打附《ぶつか》ったようなものだ。一ツ穴の狐だい。己《おら》あまた、猫のさかるような高い処は厭だからよ。勘当された息子じゃねえが、二階で寝ると魘《うな》されらあ。身分相当割床と遣るんだ。棟割《むなわり》に住んでるから、壁隣の賑《にぎや》かなのが頼もしいや。」
「不可《いけ》ませんよ、そんなことをお言いなすっちゃ、選好《えりこの》んでこのお座敷へいらっしゃらないだって、幾らでも空いてるじゃありませんか。」
「空いてる! こう、たった今座敷はねえ、おあいにくだと云ったじゃねえか。気障《きざ》は言わねえ、気障な事は云わねえから、黙って早く燗《つ》けて来ねえよ。」
 いいがかりに止むを得ず、厭な顔して、
「じゃ、御酒を上るだけになすって下さいよ、お肴《さかな》は?」
「肴は己《おら》が盤台にあら。竹の皮に包んでな、斑鮭《ぶちじゃけ》の鎌ン処《とこ》があるから、そいつを焼いて持って来ねえ。蔦ちゃんが好《すき》だったんだが、この節じゃ何にも食わねえや、折角残して帰《けえ》っても今日も食うめえ。」
 と独言《ひとりごと》になって、ぐったりして、
「媽々《かかあ》に遣るんじゃ張合《はりええ》が無え。焼いて来ねえ、焼いて来ねえ。」
 女中は、気違かと危《あやぶ》んで、怪訝《けげん》な顔をしたが、試みに、
「そして綱次さんを掛けるんですか。」
「うんや、今度はこっちがおあいにくだ。ちっとも馴染《なじみ》でも情婦《いろ》でもねえ。口説きように因っちゃ出来ねえ事もあるめえと思うのよ。もっとも惚れてるにゃ惚れてるんだ。待ちねえ、隣の室《へや》で口説いてら、しかも二人がかりだ。」
「ちょっと、」
 と留めて姉さんは興さめ顔。
「こっちは一人だ、今に来たら、お前《めえ》も手伝って口説いてくんねえ。何だ、何だ、(と聞く耳立てて)純潔な愛だ。けつのあいたあ何だい。」
 と、襖《ふすま》にどしんと顔《つら》を当てて、
「蟻の戸渡《とわたり》でいやあがらあ、べらぼうめ。」
「やかましい!」
 隣の室《へや》から堪りかねたか叱咤《しった》した。
「地声だ!」
「あれ、」
 と女中が留めようとする手も届かず、ばたりめ[#「め」に傍点]組が襖を開けると、いつの間に用意をしたか、取って捨てた手拭の中から腹掛を出た出刃庖丁。
「この毛唐人めら、汝《うぬ》、どうするか見やあがれ。」
 あッと云って、真前《まっさき》に縁へ遁《に》げた洋服は――河野英吉。続いて駈出そうとする照陽女学校の教頭、宮畑閑耕《みやばたかんこう》の胸《むな》づくし、釦《ぼたん》が引《ひっ》ちぎれて辷《すべ》った手で、背後《うしろ》から抱込んだ。
「そ、そこに泣いていらっしゃるなア大先生の嬢様でがしょう。飯田町の路地で拝んで、一度だが忘れねえ。此奴等《こいつら》がこの地獄宿へ引張込んだのを見懸けたから、ちびりちびり遣りながら、痴《こけ》の色ばなしを冷かしといて、ゆっくり撲《なぐ》ろうと思ったが、勿体なくッて我慢ならねえ。酒井さんのお嬢さん、私《わっし》がこうやっている処を、ここへ来て、こン唐人|打挫《ぶっくじ》いておやんなせえ、お打《ぶ》ちなせえ、お打ちなせえ。
 どうしてまたこんな処へ。……何、八丁堀へおいでなすって。ええ、お帰んなさる電車で逢ったら、一人で遠歩きが怪しいから、教師の役目で検《しら》べるッて、……沙汰の限りだ。
 むむ、此奴等、活かして置くんじゃねえけれど、娑婆の違った獣《けだもの》だ、盆に来て礼を云え。」
 と突飛ばすと、閑耕の匐《のめ》った身体《からだ》が、縁側で、はあはあ夢中になって体操のような手つきでいた英吉に倒れかかって、脚が搦《から》んで漾《ただよ》う処へ、チャブ台の鉢を取って、ばらり天窓《あたま》から豆を浴びせた。惣助|呵々《からから》と笑って、大音に、
「鬼は外、鬼は外――」


     道子

       二十九

 夫の所好《このみ》で白粉《おしろい》は濃いが、色は淡い。淡しとて、容色《きりょう》の劣る意味ではない。秋の花は春のと違って、艶《えん》を競い、美を誇る心が無いから、日向《ひなた》より蔭に、昼より夜、日よりも月に風情があって、あわれが深く、趣が浅いのである。
 河野病院長医学士の内室、河野家の総領娘、道子の俤《おもかげ》はそれであった。
 どの姉妹《きょうだい》も活々して、派手に花やかで、日の光に輝いている中に、独り慎ましやかで、しとやかで、露を待ち、月にあこがるる、芙蓉《ふよう》は丈のびても物寂しく、さした紅も、偏《ひと》えに身躾《みだしなみ》らしく、装った衣《きぬ》も、鈴虫の宿らしい。
 いつも引籠勝《ひっこもりがち》で、色も香も夫ばかりが慰むのであったが、今日は寺町の若竹座で、某《なにがし》孤児院に寄附の演劇があって、それに附属して、市の貴婦人連が、張出しの天幕《テント》を臨時の運動場にしつらえて、慈善市《バザア》を開く。謂《い》うまでもなく草深の妹は先陣承りの飛将軍。そこでこの会のほとんど参謀長とも謂《いつ》つべき本宅の大切な母親が、あいにく病気で、さしたる事ではないが、推《お》してそういう場所へ出て、気配り心扱いをするのは、甚だ予後のために宜《よろ》しからず、と医家だけに深く注意した処から、自分で進んだ次第ではなく、道子が出席することになった。――六月下旬の事なりけり。
 朝涼《あさすず》の内に支度が出来て、そよそよと風が渡る、袖がひたひたと腕《かいな》に靡《なび》いて、引緊《ひきしま》った白の衣紋着《えもんつき》。車を彩る青葉の緑、鼈甲《べっこう》の中指《なかざし》に影が透く艶やかな円髷《まるまげ》で、誰にも似ない瓜核顔《うりざねがお》、気高く颯《さっ》と乗出した処は、きりりとして、しかも優しく、媚《なまめ》かず温柔《おっとり》して、河野一族第一の品。
 嗜《たしなみ》も気風もこれであるから、院長の夫人よりも、大店向《おおだなむき》の御新姐《ごしんぞ》らしい。はたそれ途中一土手|田畝道《たんぼみち》へかかって、青田|越《ごし》に富士の山に対した景色は、慈善市《バザア》へ出掛ける貴女《レディ》とよりは、浅間の社へ御代参の御守殿という風があった。
 車は病院所在地の横田の方から、この田畝を越して、城の裏通りを走ったが、突《つっ》かけ若竹座へは行くのでなく、やがて西草深へ挽込《ひきこ》んで、楫棒《かじぼう》は島山の門の、例の石橋の際に着く。
 姉夫人は、余り馴れない会場へ一人で行くのが頼りないので、菅子を誘いに来たのであったが、静かな内へ通って見ると、妹は影も見えず、小児《こども》達も、乳母《ばあや》も書生も居ないで、長火鉢の前に主人《あるじ》の理学士がただ一人、下宿屋に居て寝坊をした時のように詰らなそうな顔をして、膳に向って新聞を読んでいた。火鉢に味噌汁の鍋《なべ》が掛《かか》って、まだそれが煮立たぬから、こうして待っているのである。
 気軽なら一番《ひとつ》威《おど》かしても見よう処、姉夫人は少し腰を屈《かが》めて、縁から差覗いた、眉の柔《やわらか》な笑顔を、綺麗に、小さく畳んだ手巾《ハンケチ》で半ば隠しながら、
「お一人。」
「やあ、誰かと思った。」
 と髯《ひげ》のべったりした口許《くちもと》に笑《わらい》は見せたが、御承知の為人《ひととなり》で、どうとも謂《い》わぬ。
 姉夫人は、やっぱり半分《なかば》隠れたまま、
「滝ちゃんや、透《とおる》さんは。」
「母様《かあさん》が出掛けるんで、跡を追うですから、乳母《ばあや》が連れて、日曜だから山田(玄関の書生の名)もついて遊びです。平時《いつも》だと御宅へ上るんだけれど、今日の慈善会には、御都合で貴女も出掛けると云うから、珍らしくはないが、また浅間へ行って、豆か麩《ふ》を食わしとるですかな。」
「ではもう菅子さんは参りましたね。」
「先刻《さっき》出たです。」
 なぜ待っててくれないのだろう、と云う顔色《かおつき》もしないで、
「ああ、もっと早く来れば可《よ》うござんした。一所に行って欲しかったし、それに四五日お来《み》えなさらないから、滝ちゃんや透さんの顔も見たくって、」
 と優しく云って本意《ほい》なそう。一門の中《うち》に、この人ばかり、一人《いちにん》も小児を持たぬ。

       三十

 姉夫人の、その本意無げな様子を見て、理学士は、ああ、気の毒だと思うと、この人物だけにいっそ口重になって、言訳もしなければ慰めもせずに、希代にニヤリとして黙ってしまう。
 と直ぐ出掛けようか、どうしようと、気抜のした姿うら寂《さみ》しく、姉夫人も言《ことば》なく、手を掛けていた柱を背《せな》に向直って、黒塀越に、雲切れがしたように合歓《ねむ》の散った、日曜の朝の青田を見遣った時、ぶつぶつ騒しい鍋の音。
 と見ると、むらむらと湯気が立って、理学士が蓋《ふた》を取った、がよっぽど腹《おなか》が空いたと見えて、
「失礼します。」と碗を手にする。
「お待ちなさいまし、煮詰りはしませんか。」
 と肉色の絽《ろ》の長襦袢《ながじゅばん》で、絽|縮緬《ちりめん》の褄《つま》摺《す》る音ない、するすると長火鉢の前へ行って、科《しな》よく覗《のぞ》いて見て、
「まあ、辛うござんすよ、これじゃ、」
 と銅壺《どうこ》の湯を注《さ》して、杓文字《しゃもじ》で一つ軽く圧《おさ》えて、
「お装《つ》け申しましょう、」と艶麗《あでやか》に云う。
「恐縮ですな。」
 と碗を出して、理学士は、道子が、毛一筋も乱れない円髷の艶《つや》も溢《こぼ》さず、白粉の濃い襟を据えて、端然とした白襟、薄お納戸のその紗綾形《さやがた》小紋の紋着《もんつき》で、味噌汁《おつけ》を装《よそ》う白々《しろしろ》とした手を、感に堪えて見ていたが、
「玉手を労しますな、」
 と一代の世辞を云って、嬉しそうに笑って、
「御馳走(とチュウと吸って)これは旨《うま》い。」
「人様のもので義理をして。ほほほ、お土産も持って参りません。」
 その挨拶もせずに、理学士は箸《はし》もつけないで、ごッくごッく。
「非常においしいです。僕は味噌汁と云うものは、塩が辛くなきゃ湯を飲むような味の無いものだとばかり思うたです。今、貴女、干杓《ひしゃく》に二杯入れたですね。あれは汁を旨く喰わせる禁厭《まじない》ですかね。」
「はい、お禁厭でございます。」
 と云った目のふちに、蕾《つぼみ》のような微笑《ほほえみ》を含んでいたから。
「は、は、は、串戯《じょうだん》でしょう。」
「菅子さんに聞いて御覧なさいまし。」
「そう云えば貴女、もうお出掛けなさらなければなりますまいで。」
「は、私はちっとも急ぎませんけれど、今日は名代《みょうだい》も兼ねておりますから、疾《はや》く参ってお手伝いをいたしませんと、また菅子さんに叱言《こごと》を言われると不可《いけ》ません――もうそれでは、若竹座へ参っております時分でしょうね。」
「うんえ、」
 頬ばった飯に籠って、変な声。
「道寄をしたですよ。貴女これからおいでなさるなら、早瀬の許《とこ》へお出でなさい、あすこに居ましょうで。」
「しますと、あの方も御一所なんですか。」
「一所じゃないです。早瀬がああいう依怙地《いこじ》もんですで。半分馬鹿にしていて、孤児院の義捐《ぎえん》なんざ賛成せんです。今日は会へも出んと云うそうで。それを是非説破して引張出すんだと云いましたから、今頃は盛に長紅舌を弄《ろう》しておるでしょう、は、はは、」
 と調子高に笑って、厭《いや》な顔をして、
「行って見て下さらんか。貴女、」
「はい、」
 となぜか俯向《うつむ》いたが、姉夫人はそのまましとやかに別れの会釈。
「また逢違いになりませんように、それでは御飯を召食《めしあが》りかけた処を、失礼ですが、」
「いや、もう済んだです。」
 その日は珍らしく理学士が玄関まで送って出た。
 絹足袋の、静《しずか》な畳ざわりには、客の来たのを心着かなかった鞠子の婢《おさん》も、旦那様の踏みしだいて出る跫音《あしおと》に、ひょっこり台所《だいどこ》から顔を見せる。

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