果敢《はか》なく聞えた。
「ああ、そんならそうおしな。どれ、大急ぎで、いいつけよう。」
「戸外《おもて》は暑かろうねえ。」
「何の、お蔦さん。お嬢さんに上げるんだもの、無理にも洋傘《こうもり》をさすものか。」
「角の小間物屋で電話をお借りよ。」
「ああ、知ってるよ。あんまりあらくない中くらいな処が好《よ》かろうねえ。」
「私はヤケに大串が可いけれど、お嬢さんは、」
「ここで皆《みんな》一所に食べるんでなくっちゃ、厭。」
「お相伴しますとも、お取膳とやらで、」
と小芳が嬉しそうに云う。
「じゃ、私も大きいの。」
「感心、」
とお蔦が莞爾《にっこり》。
「驚きましたねえ。」
と立つ。
「御飯も一所よ。」
「あいよ、」
と框《かまち》を下りる時、褄《つま》を取りそうにして、振向いた目のふちが腫《はれ》ぼったく、小芳は胸を抱いて、格子をがらがら。
「お嬢さん、」
とお蔦が懐しそうに、
「もともと、そういう約束で別れたんですけれど、私の方へも丸一年……ちっとも便《たより》がないんですよ。
人が教えてくれましてね、新聞を見ると、すっかり土地の様子が知れるッて言いますから、去年の七月から静岡の民友新聞と云うのを取りましてね、朝起きると直ぐ覗《のぞ》いて、もう見落しはしなかろうか、と隙《ひま》さえあれば、広告まで読みますんですが、ちっとも早瀬さんの事を書いてあったことはありませんから、どうしておいでだか分りません。
この頃じゃ落胆《がっかり》して、勢《せい》も張合も無いんですけれども、もしやにひかされては見ています。
たった一度、早瀬さんのことを書いてあったのがござんしてね、切抜いて紙入の中へ入れてありますから、今、お目に掛けますよ。」
二十六
お蔦は蓐《しとね》に居直って、押入の戸を右に開ける、と上も下も仏壇で、一ツは当家の。自分でお蔦が守をするのは同居だけに下に在る。それも何となくものあわれだけれども、後姿が褄《つま》の萎《な》えた、かよわい状《さま》は、物語にでもあるような。直ぐにその裳《もすそ》から、仏壇の中へ消えそうに腰が細く、撫肩がしおれて、影が薄い。
紙入の中は、しばらく指の尖《さき》で掻探さねばならなかったほど、可哀相に大切《だいじ》に蔵《しま》って、小さく、整然《きちん》と畳んで、浜町の清正公《せいしょうこう》の出世開運のお札と一所にしてあった、その新聞の切抜を出す、とお妙は早や隔心《へだてごころ》も無く、十年の馴染のように、横ざまに蓐《とこ》に凭《もた》れながら、頸《うなじ》を伸《のば》して、待構えて、
「ちょいと、どんなことが書いてあって。また掏賊《すり》を助けたりなんか、不可《いけ》ないことをしたのじゃないの。急いで聞かして頂戴な。」
「いいえ、まあ、貴女がお読みなさいまし。」
「拝見な。」
と寝転ぶようにして、頬杖《ほおづえ》ついて、畳の上で読むのを見ながら、抜きかけた、仏壇の抽斗《ひきだし》を覗くと、そこに仰向けにしてある主税の写真を密《そっ》と見て、ほろりとしながら、カタリと閉めた。懐中《ふところ》へ、その酒井先生恩賜の紙幣《さつ》の紙包を取って、仏壇の中に落ちた線香立ての灰を、フッフッと吹いて、手で撫でる。
戸外《おもて》を金魚売が通った。
「何でしょう。この小使は、また可訝《おかし》なものじゃないの、」
とお妙が顔を赤うして云う。新聞に書いたのは(AB《アアベエ》横町。)と云う標題《みだし》で、西の草深のはずれ、浅間に寄った、もう郡部になろうとするとある小路を、近頃|渾名《あだな》してAB横町と称《とな》える。すでに阿部|郡《ごおり》であるのだから語呂が合い過ぎるけれども、これは独語学者早瀬主税氏が、ここに私塾を開いて、朝からその声の絶間のない処から、学生が戯《たわむれ》にしか名づけたのが、一般に拡まって、豆腐屋までがAB横町と呼んで、土地の名物である。名物と云えば、も一ツその早瀬塾の若いもので、これが煮焼《にたき》、拭掃除、万端世話をするのであるが、通例なら学僕と云う処、粋《いなせ》な兄哥《あにい》で、鼻唄を唱《うた》えばと云っても学問をするのでない。以前早瀬氏が東京で或《ある》学校に講師だった、そこで知己《ちかづき》の小使が、便って来たものだそうだが、俳優《やくしゃ》の声色が上手で落語も行《や》る。時々(いらっしゃい、)と怒鳴って、下足に札を通して通学生を驚かす、とんだ愛敬もので、小使さん、小使さんと、有名な島山夫人をはじめ、近頃流行のようになって、独逸語をその横町に学ぶ貴婦人連が、大分|御贔屓《ごひいき》である、と云う雑報の意味であった。
小芳が、おお暑い、と云いつつ、いそいそと帰って来た。
話にその小使の事も交って、何であろうと三人が風説《うわさ》とりどりの中へ、へい、お待遠様、と来たのが竹葉。
小芳が火を起すと、気取気の無いお嬢さん、台所へ土瓶を提げて出る。お蔦も勢《いきおい》に連れて蹌踉《よろよろ》起きて出て、自慢の番茶の焙《ほう》じ加減で、三人睦くお取膳。
お妙が奈良漬にほうとなった、顔がほてると洗ったので、小芳が刷毛《はけ》を持って、颯《さっ》とお化粧《つくり》を直すと、お蔦がぐい、と櫛を拭《ふ》いて一歯入れる。
苦労人《くろうと》が二人がかりで、妙子は品のいい処へ粋になって、またあるまじき美麗《あでやか》さを、飽かず視《なが》めて、小芳が幾度《いくたび》も恍惚《うっとり》気抜けのするようなのを、ああ、先生に瓜二つ、御尤《ごもっと》もな次第だけれども、余り手放しで口惜《くやし》いから、あとでいじめてやろう、とお蔦が思い設けたが、……ああ、さりとては……
いずれ両親には内証《ないしょ》なんだから、と(おいしかってよ。)を見得もなく門口でまで云って、遅くならない内、お妙は八ツ下りに帰った。路地の角まで見送って、ややあって引返《ひっかえ》した小芳が、ばたばたと駈込んで、半狂乱に、ひしと、お蔦に縋《すが》りついて、
「我慢が出来ない。我慢が出来ない。我慢が出来ない。あんな可愛いお嬢さんにお育てなすったお手柄は、真砂町の夫人《おくさん》だけれど、産《う》……産んだのは私だよ。私の子だよ、お蔦さん、身体《からだ》へ袖が触る度《たんび》に、胸がうずいてならなんだ、御覧よ、乳のはったこと。」
と、手を引入れて引緊《ひきし》めて、わっとばかりに声を立てると、思わず熟《じっ》と抱き合って、
「あれ、しっかりおし、小芳さん、癪《しゃく》が起ると不可《いけな》いよ。私たちは何の因果で、」
芸者なんぞになったとて、色も諸分《しょわけ》も知抜いた、いずれ名取の婦《おんな》ども、処女《むすめ》のように泣いたのである。
小待合
二十七
「こうこう、姉《あね》え、姉え、目を開《あ》いて口を利きねえ。もっとも、かっと開いたところで、富士も筑波も見えるかどうだか、覚束ねえ目だけれどよ。はははは、いくら江戸|前《めえ》の肴屋《さかなや》だって、玄関から怒鳴り込む奴があるかい。お客だぜ。お客様だぜ。おい、お前《めえ》の方で惣菜は要らなくっても、己《おら》が方で座敷が要るんだ。何を! 座敷が無え、古風な事を言うな、芸者の霜枯じゃあるめえし。」
と盤台《はんだい》をどさりと横づけに、澄まして天秤《てんびん》を立てかける。微酔《ほろえい》のめ[#「め」に傍点]組の惣助。商売《あきない》の帰途《かえり》にまたぐれた――これだから女房が、内には鉄瓶さえ置かないのである。
立迎えた小待合の女中は、坐りもやらず中腰でうろうろして、
「全くおあいにくなんですよ。」
と入口を塞いだ前へ、平気で、ずんと腰を下ろして、
「見ねえ、身もんでえをする度《たんび》に、どんぶりが鳴らあ。腹の虫が泣くんじゃねえ、金子《かね》の音だ。びくびくするねえ。お望みとありゃ、千両束で足の埃《ほこり》を払《はた》いて通るぜ。」
とあげ膝で、ボコポン靴をずぶりと脱いで、装塩《もりじお》のこなたへボカン。
声が高いのでもう一人、奥からばたばたと女中が出て来て、推重《おっかさ》なると、力を得たらしく以前の女中が、
「ほんとうにお前さん、お座敷が無いのですよ。」
「看板を下ろせ、」
と喚《わめ》いて、
「座敷がなくば押入へ案内しねえ、天井だって用は足りらい。やあ、御新規お一人様あ、」
と尻上りに云って、外道面《げどうづら》の口を尖らす、相好塩吹の面のごとし。
「そっちの姉《あねえ》は話せそうだな。うんや、やっぱりお座敷ござなく面《づら》だ。変な面だな。はははは、トおっしゃる方が、あんまり変でもねえ面でもねえ。」
行詰った鼻の下へ、握拳《にぎりこぶし》を捻込《ねじこ》むように引擦《ひっこす》って、
「憚《はばか》んながらこう見えても、余所行《よそゆ》きの情婦《いろ》があるぜ。待合《まちええ》へ来て見繕いで拵《こしれ》えるような、べらぼうな長生《ながいき》をするもんかい。
おう、八丁堀のめ[#「め」に傍点]の字が来たが、の、の、承知か、承知か、と電話を掛けねえ。柳橋の小芳さん許《とこ》だ。柏屋《かしわや》の綱次《つなじ》と云う美しいのが、忽然《こつぜん》として顕《あらわ》れらあ。
どうだ、驚いたか。銀行の頭取が肴屋に化けて来たのよ。いよ、御趣向!」
と変な手つき、にゅうと女中の鼻頭《はなさき》へ突出して、
「それとも半纏着《はんてんぎ》は看板に障るから上げねえ、とでも吐《ぬ》かして見ろ。河岸から鯨を背負《しょ》って来て、汝《てめえ》ン許《とこ》で泳がせるぞ、浜町|界隈《かいわい》洪水だ。地震より恐怖《おっかね》え、屋体骨《やていぼね》は浮上るぜ。」
女中二人が目配せして、
「ともかくお上んなさいまし、」
「どうにか致しますから。」
「何だ、どうにかする。格子で馴染を引くような、気障《きざ》な事を言やあがる。だが心底は見届けたよ。いや、御案内引[#「引」は小書き]。」
と黄声《きなこえ》を発して、どさり、と廊下の壁に打附《ぶつか》りながら、
「どこだ、どこだ、さあ、持って来い、座敷を。」
で、突立って大手を拡げる。
「どうぞこちらへ、」
と廊下で別れて、一人が折曲《おりまが》って二階へ上る後から、どしどし乱入。とある六畳へのめずり込むと、蒲団も待たず、半股引《はんももひき》の薄汚れたので大胡坐《おおあぐら》。
「御酒《ごしゅ》をあがりますか。」
「何升お燗《かん》をしますか、と聞きねえ。仕入れてあるんじゃ追《おッ》つく[#「追つく」は底本では「追っく」]めえ。」
女中が苦笑いして立とうとすると、長々と手を伸ばして、据眼《すえまなこ》で首を振って、チョ、舌鼓を打って、
「待ちな待ちな。大夫《たゆう》前芸と仕《つかまつ》って、一ツ滝の水を走らせる、」
とふいと立って、
「鷲尾の三郎案内致せ。鵯越《ひよどりごえ》の逆落しと遣れ。裏階子《うらばしご》から便所だ、便所だ。」
どっかの夜講で聞いたそうな。
二十八
手水《ちょうず》鉢の処へめ[#「め」に傍点]組はのっそり。里心のついた振られ客のような腰附で、中庭越に下座敷をきょろきょろと[#「きょろきょろと」は底本では「きよろきょろと」]※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、どこへ何んと見当附けたか、案内も待たず、元の二階へも戻らないで、とある一室《ひとま》へのっそりと入って、襖際《ふすまぎわ》へ、どさりとまた胡坐《あぐら》になる。
女中が慌《あわただ》しく駈込んで、
「まあ、どこへいらっしゃるんですか。」
と、たしなめるように云うと、
「ここにいらっしゃら。ははは、心配するな。」
「困りますよ。隣のお座敷には、お客様が有るじゃありませんか。」
「構わねえ、一向構わねえ。」
「こちらがお構いなさいませんでも、あちら様で。」
「可《い》いじゃねえか、お互《たげえ》だ。こんな処へ来て何も、向う様だって遠慮はねえ。大家様の隠居殿の葬礼《ともれい》に立つとってよ、町内が質屋
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