巻の襟を出た肩の辺《あたり》が露《あらわ》に見えた。残燈《ありあけ》はその枕許にも差置いてあったが、どちらの明《あかり》でも、繋いだものの中は断たれず。……
ぶるぶる震うと、夫人はふいと衾《ふすま》を出て、胸を圧《おさ》えて、熟《じっ》と見据えた目に、閨の内を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、※[#「りっしんべん+夢」の「夕」に代えて「目」、第4水準2−12−81]《ぼう》としたようで、まだ覚めやらぬ夢に、菫咲く春の野を※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》うごとく、裳《もすそ》も畳に漾《ただよ》ったが、ややあって、はじめてその怪い扱帯《しごき》の我を纏《まと》えるに心着いたか、あ、と忍び音に、魘《うな》された、目の美しい蝶の顔は、俯向けに菫の中へ落ちた。
思いやり
二十
妙子は同伴《つれ》も無しにただ一人、学校がえりの態《なり》で、八丁堀のとある路地へ入って来た。
通うその学校は、麹町《こうじまち》辺であるが、どこをどう廻ったのか、真砂町《まさごちょう》の嬢さんがこの辺へ来るのは、旅行をするようなもので、野山を越えてはるばると……近所で温習《なら》っている三味線《さみせん》も、旅の衣はすずかけの、旅の衣はすずかけの。
目で聞くごとくぱっちりと、その黒目勝なのを※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったお妙は、鶯の声を見る時と同一《おんなじ》な可愛い顔で、路地に立って※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みま》わしながら、橘《たちばな》に井げたの紋、堀の内|講中《こうじゅう》のお札を並べた、上原《かんばら》と姓だけの門札《かどふだ》を視《なが》めて、単衣《ひとえ》の襟をちょいと合わせて、すっとその格子戸へ寄って、横に立って、洋傘《ひがさ》を支《つ》いたが、声を懸けようとしたらしく、斜めに覗《のぞ》き込んだ顔を赤らめて、黙って俯向《うつむ》いて俯目《ふしめ》になった。口許《くちもと》より睫毛《まつげ》が長く、日にさした影は小さく軒下に隠れた。
コトコトとその洋傘《ひがさ》で、爪先《つまさき》の土を叩いていたが、
「御免なさい。」
とようよう云う、控え目だったけれども、朗《ほがらか》に清《すず》しい、框《かまち》の障子越にずッと透《とお》る。
中からよく似た、やや落着いた静《しずか》な声で、
「はあ、誰方《どなた》?」
お妙は自分から調子が低く、今のは聞えない分に極《き》めていたのを、すぐの返事は、ちと不意討という風で、吃驚《びっくり》して顔を上げる。
「誰方、」
「あの……髪結さんの内はこっちでしょうか。」
「はい、こちらでございますが。」と座を立った気勢《けはい》に連れて、もの云う調子が婀娜《あだ》になる。
と真正面《まっしょうめん》に内を透かして、格子戸に目を押附《おッつ》ける。
「何ぞ御用。」
といくらか透いていた障子をすらりと開ける。粋で、品の佳《い》い、しっとりした縞《しま》お召に、黒繻子《くろじゅす》の丸帯した御新造《ごしんぞ》風の円髷《まるまげ》は、見違えるように質素《じみ》だけれども、みどりの黒髪たぐいなき、柳橋の小芳《こよし》であった。
立身《たちみ》で、框から外を見たが、こんな門《かど》には最明寺、思いも寄らぬ令嬢風に、急いで支膝《つきひざ》になって、
「あいにく出掛けて居《お》りませんが、貴嬢《あなた》、どちら様でいらっしゃいますか。帰りましたら、直ぐ上りますように申しましょう。」
瞳も離さないで視めたお妙が、後馳《おくれば》せに会釈して、
「そう、でも、あの、誰方かおいででしょう。内へ来て貰うんじゃないの。私が結って欲しいのよ。どうせ、こんなのですから、」
と指でも圧《おさ》えず、惜気《おしげ》なく束髪の鬢《びん》を掉《ふ》って、
「お師匠さんでなくっても可《い》いんです。お弟子さんがお在《いで》なら、ちょいと結んで下さいな。」
縋《すが》って頼むように仇《あど》なく云って、しっかり格子に掴《つか》まって、差覗きながら、
「小母さんでも可いわ。」
我を(小母さん)にして髪を結って、と云われたので、我ながら忘れたように、心から美しい笑顔になって、
「貴嬢、まあ、どちらから。あの、御近所でいらっしゃいますか。」
「いいえ、遠いのよ。」
「お遠うございますか。」
「本郷だわ。」
「ええ、」
「私ねえ、本郷のねえ、酒井と云うの。」
「お嬢様、まあ、」
と土間に一足おろしさまに、小芳は、急いで框から開ける手が、戸に掴まったお妙の指を、中から圧《おさ》えたのも気が附かぬか、駒下駄《こまげた》の先を、逆《さかさ》に半分踏まえて、片褄蹴出《かたづまけだ》しのみだれさえ、忘れたように瞻《みまも》って、
「お妙様。」
「小母さんは、早瀬さんの……あの……お蔦さん?」
二十一
「いらっしゃいまし、」
と小芳が太《いた》く更《あらた》まって、三指を突いた時、お妙は窮屈そうに六畳の上座《じょうざ》へ直されていたのである。
「貴嬢《あなた》、まあ、どうしてこんな処へ、たった御一人なんですか。途中で何かございませんでしたか、お暑かったでしょうのに。唯今《ただいま》手拭を絞って差上げます。」
と一斉《いっとき》に云いかけられて、袖で胸を煽《あお》いでいた手を留めて、
「暑いんじゃないの、私|極《きまり》が悪いから、それでもって、あの、」
と袂《たもと》を顔に当てて、鈴のような目ばかり出して、
「小母さんが、お蔦さん?」と低声《こごえ》でまた聞いた。
「あれ、どうしましょう。あんまり思懸けない方がお見えなさいましたもんですから、私は狼狽《とっち》てしまってさ。ほほほ、いうことも前後《あとさき》になるんですもの、まあ、御免なさいまし。
私は……じゃありません。その……何でございますよ、お蔦さんが煩らって寝ておりますので、見舞に来たんでございます。」
「ええ、御病気。」と憂慮《きづかわ》しげに打傾く。
「はあ、久しい間、」
「沢山《たんと》、悪くって?」
「いいえ、そんなでもないようですけれど、臥《ふせ》っておりますから、お髪《ぐし》はあげられませんでしょう。ですが、御緩《ごゆっ》くり、まあ、なさいまし。この頃では、お増さんも気に掛けて、早く帰って参りますから、ほんとうに……お嬢さん、」
と擦寄って、うっかりと見惚《みと》れている。
上框《あがりぐち》が三畳で、直ぐ次がこの六畳。前の縁が折曲《おりまが》った処に、もう一室《ひとま》、障子は真中《まんなか》で開いていたが、閉った蔭に、床があれば有るらしい。
向うは余所《よそ》の蔵で行詰ったが、いわゆる猫の額ほどは庭も在って、青いものも少しは見える。小綺麗さは、酔《のん》だくれには過ぎたりといえども、お増と云う女房の腕で、畳も蒼《あお》い。上原とあった門札こそ、世を忍ぶ仮の名でも何でもない、すなわちこれめ[#「め」に傍点]組の住居《すまい》、実は女髪結お増の家と云ってしかるべきであろう。
惣助の得意先は、皆、渠《かれ》を称して恩田百姓と呼ぶ。註に不及《およばず》、作取《つくりど》りのただ儲け、商売《あきない》で儲けるだけは、飲むも可《よ》し、打《ぶ》つも可し、買うも可しだが、何がさてそれで済もうか。儲けを飲んで、資本《もとで》で買って、それから女房の衣服《きもの》で打つ。
それお株がはじまった、と見ると、女房はがちがちがちと在りたけの身上《しんしょう》へ錠をおろして、鍵を昼夜帯へ突込んで、当分商売はさせません、と仕事に出る、
トかますの煙草入に湯銭も無い。おなまめだんぶつ、座敷牢だ、と火鉢の前に縮《すく》まって、下げ煙管《ぎせる》の投首が、ある時悪心増長して、鉄瓶を引外《ひっぱ》ずし、沸立《にた》った湯を流《ながし》へあけて、溝の湯気の消えぬ間に、笊蕎麦《ざるそば》で一杯《いち》を極《き》めた。
その時女房に勘当されたが、やっとよりが戻って以来、金目な物は重箱まで残らず出入先へ預けたから、家には似ない調度の疎末《そまつ》さ。どこを見てもがらんとして、間狭《ませま》な内には結句さっぱりして可《よ》さそうなが、お妙は目を外らす壁張りの絵も無いので、しきりに袂《たもと》を爪繰って、
「可いのよ、小母さん、髪結さんの許《とこ》だから、極りが悪いからそう云って来たけれど、髪なんぞ結《い》わなくったって構わなくってよ。ちっとも私、結いたくはないの、」
と投出したように云って、
「早瀬さんの、あの、主税さんの奥さんに、私、お目にかかれなくって?」
「姉さん、」
ト、障子の内から。
「あい、」と小芳が立構えで、縁へ振向いてそなたを見込むと、
「私、そこへ行っても可《い》いかい?」
小芳が急いで縁づたいで、障子を向うへ押しながら、膝を敷居越に枕許。
枕についた肩細く、半ば掻巻《かいまき》を藻脱けた姿の、空蝉《うつせみ》のあわれな胸を、痩《や》せた手でしっかりと、浴衣に襲《かさ》ねた寝衣《ねまき》の襟の、はだかったのを切なそうに掴《つか》みながら、銀杏返しの鬢《びん》の崩れを、引結《ひきゆわ》えた頭《かしら》重げに、透通るように色の白い、鼻筋の通った顔を、がっくりと肩につけて、吻《ほっ》と今|呼吸《いき》をしたのはお蔦である。
二十二
お蔦は急に起上った身体《からだ》のあがきで、寝床に添った押入の暗い方へ顔の向いたを、こなたへ見返すさえ術《じゅつ》なそうであった。
枕から透く、その細う捩《よ》れた背《せな》へ、小芳が、密《そっ》と手を入れて、上へ抱起すようにして、
「切なくはないかい、お蔦さん、起きられるかい、お前さん、無理をしては不可《いけな》いよ。」
「ああ、難有《ありがと》う、」
とようよう起直って、顱巻《はちまき》を取ると、あわれなほど振りかかる後れ毛を掻上げながら、
「何だか、骨が抜けたようで可笑《おかし》いわ、気障《きざ》だねえ、ぐったりして。」
と蓮葉《はすは》に云って、口惜《くや》しそうに力のない膝を緊《し》め合わせる。
お妙はもう六畳の縁へ立って来て、障子に掴まって覗《のぞ》いていたが、
「寝ていらっしゃいよ、よう、そうしておいでなさいよ。私がそこへ行ってよ。」
とそれまで遠慮したらしかったが、さあとなると、飜然《ひらり》と縁を切って走込むばかりの勢《いきおい》――小芳の方が一目先へ御見の済んだ馴染《なじみ》だけ、この方が便りになったか、薄くお太鼓に結んだ黒繻子のその帯へ、擦着《すりつ》くように坐って、袖のわきから顔だけ出して、はじめて逢ったお蔦の顔を、瞬もしないで凝《じっ》と視《なが》める。
肩を落して、お蔦が蒲団の外へ出ようとするのを、
「よう、そうしていらっしゃいなね。そんなにして、私は困るわ。」
「はじめまして、」
と余り白くて、血の通るのは覚束《おぼつか》ない頸《うなじ》を下げて、手を支《つ》きつつ、
「失礼でございますから、」
「よう、私困るのよ。寝ていて下さらなくっては。小母さん、そう云って下さいな。」
と気を揉んで、我を忘れて、小芳の背中をとんとんと叩いて、取次げ、と急《あせ》って云う。
その優しさが身に浸みたか、お蔦の手をしっかり握った、小芳の指も震えつつ、
「お蔦さん、可いから寝ておいでな、お嬢さんがあんなに云って下さるからさ。」
「いいえ、そんなじゃありません。切なければ直《じ》きに寝ますよ。お嬢さん、難有《ありがと》う存じます。貴嬢《あなた》、よくおいで下さいましたのね。」
「そして、よく家《うち》が知れましたわね。この辺へは、滅多においでなさいましたことはござんせんでしょうにねえ。」
小芳はまた今更感心したように熟々《つくづく》云った。
「はあ、分らなくってね。私、方々で聞いて極《きま》りが悪かったわ。探すのさえ煩《むず》かしいんですもの。何だか、あの、小母さんたちは、ちょいとは、あの、逢って下さらなか
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