》しそうに、熟《じっ》と見ながら、時々思出したように、隣の椅子の上に愛らしく乗《のっ》かかった、かすりで揃の、袷《あわせ》と筒袖の羽織を着せた、四ツばかりの男の児《こ》に、極めて上手な、肉叉《フォーク》と小刀《ナイフ》の扱い振《ぶり》で、肉《チキン》を切って皿へ取分けてやる、盛装した貴婦人があった。
 見渡す青葉、今日しとしと、窓の緑に降りかかる雨の中を、雲は白鷺《しらさぎ》の飛ぶごとく、ちらちらと来ては山の腹を後《しりえ》に走る。
 函嶺《はこね》を絞る点滴《したたり》に、自然《おのずから》浴《ゆあみ》した貴婦人の膚《はだ》は、滑かに玉を刻んだように見えた。
 真白なリボンに、黒髪の艶《つや》は、金蒔絵《きんまきえ》の櫛の光を沈めて、いよいよ漆のごとく、藤紫のぼかしに牡丹《ぼたん》の花、蕊《しべ》に金入の半襟、栗梅の紋お召の袷《あわせ》、薄色の褄《つま》を襲《かさ》ねて、幽《かす》かに紅の入った黒地友染の下襲《したがさ》ね、折からの雨に涼しく見える、柳の腰を、十三の糸で結んだかと黒繻子《くろじゅす》の丸帯に金泥でするすると引いた琴の絃《いと》、添えた模様の琴柱《ことじ》の一枚《ひとつ》が、ふっくりと乳房を包んだ胸を圧《おさ》えて、時計の金鎖を留めている。羽織は薄い小豆色の縮緬《ちりめん》に……ちょいと分りかねたが……五ツ紋、小刀持つ手の動くに連れて、指環《ゆびわ》の玉の、幾つか連ってキラキラ人の眼《まなこ》を射るのは、水晶の珠数を爪繰《つまぐ》るに似て、非ず、浮世は今を盛《さかり》の色。艶麗《あでやか》な女俳優《おんなやくしゃ》が、子役を連れているような。年齢《とし》は、されば、その児《こ》の母親とすれば、少くとも四五であるが、姉とすれば、九でも二十《はたち》でも差支えはない。
 婦人は、しきりに、その独語に巧妙な同胞の、鼻筋の通った、細表の、色の浅黒い、眉のやや迫った男の、少々《わかわか》しい口許《くちもと》と、心の透通るような眼光《まなざし》を見て、ともすれば我を忘れるばかりになるので、小児《こども》は手が空いたが、もう腹は出来たり、退屈らしく皿の中へ、指でくるくると環《わ》を描《か》いた。それも、詰らなそうに、円い目で、貴婦人の顔を視《なが》めて、同一《おなじ》ようにそなたを向いたが、一向珍らしくない日本の兄《あにい》より、これは外国の小父さんの方が面白いから、あどけなく見入って傾く。
 その、不思議そうに瞳をくるくると遣《や》った様子は、よっぽど可愛くって、隅の窓を三角に取って彳《たたず》んだボオイさえ、莞爾《にっこり》した程であるから、当の外国人は髯《ひげ》をもじゃもじゃと破顔して、ちょうど食後の林檎《りんご》を剥《む》きかけていた処、小刀を目八分に取って、皮をひょいと雷干《かみなりぼし》に、菓物《くだもの》を差上げて何か口早に云うと、青年が振返って、身を捻《ね》じざまに、直ぐ近かった、小児の乗っかった椅子へ手をかけて、
「坊ちゃん、いらっしゃい。好《い》いものを上げますとさ。」とその言《ことば》を通じたが、無理な乗出しようをして逆に向いたから、つかまった腕に力が入ったので、椅子が斜めに、貴婦人の方へ横になると、それを嬉しそうに、臆面《おくめん》なく、
「アハアハ、」と小児が笑う。
 青年は、好事《ものずき》にも、わざと自分の腰をずらして、今度は危気《あぶなげ》なしに両手をかけて、揺籠《ゆりかご》のようにぐらぐらと遣ると、
「アハハ、」といよいよ嬉しがる。
 御機嫌を見計らって、
「さあ、お来《いで》なさい、お来なさい。」
 貴婦人の底意なく頷《うなず》いたのを見て、小さな靴を思う様|上下《うえした》に刎《は》ねて、外国人の前へ行《ゆ》くと、小刀と林檎と一緒に放して差置くや否や、にょいと手を伸ばして、小児を抱えて、スポンと床から捩取《もぎと》ったように、目よりも高く差上げて、覚束《おぼつか》ない口で、
「万歳――」
 ボオイが愛想に、ハタハタと手を叩いた。客は時に食堂に、この一組ばかりであった。

       二

「今のは独逸《ドイツ》人でございますか。」
 外客《がいかく》の、食堂を出たあとで、貴婦人は青年に尋ねたのである。会話の英語《イングリッシュ》でないのを、すでに承知していたので、その方の素養のあることが知れる。
 青年は椅子をぐるりと廻して、
「僕もそうかと思いましたが、違います、伊太利《イタリイ》人だそうです。」
「はあ、伊太利の、商人ですか。」
「いえ、どうも学者のようです。しかしこっちが学者でありませんから、科学上の談話《はなし》は出来ませんでしたが、様子が、何だか理学者らしゅうございます。」
「理学者、そうでございますか。」
 小児《こども》の肩に手を懸けて、
「これの父親《ちち》も、ちとばかりその端くれを、致しますのでございますよ。」
 さては理学士か何ぞである。
 貴婦人はこう云った時、やや得意気に見えた。
「さぞおもしろい、お話しがございましたでしょうね。」
 雪踏《せった》をずらす音がして、柔《やわら》かな肱《ひじ》を、唐草の浮模様ある、卓子《テイブル》の蔽《おおい》に曲げて、身を入れて聞かれたので、青年はなぜか、困った顔をして、
「どう仕《つかまつ》りまして、そうおっしゃられては恐縮しましたな、僕のは、でたらめの理学者ですよ。ええ、」
 とちょいと天窓《あたま》を掻《か》いて、
「林檎を食べた処から、先祖のニュウトン先生を思い出して、そこで理学者と遣《や》ったんです。はは、はは、実際はその何だかちっとも分りません。」
「まあ。お人の悪い。貴郎《あなた》は、」
 と莞爾《にっこり》した流眄《ながしめ》の媚《なまめ》かしさ。熟《じっ》と見られて、青年は目を外らしたが、今は仕切の外に控えた、ボオイと硝子《がらす》越に顔の合ったのを、手招きして、
「珈琲《コオヒイ》を。」
「ああ、こちらへも。」
 と貴婦人も註文しながら、
「ですが、大層お話が持てましたじゃありませんか。彼地《あちら》の文学のお話ででもございましたんですか。」
「どういたしまして、」
 と青年はいよいよ弱って、
「人を見て法を説けは、外国人も心得ているんでしょう。僕の柄じゃ、そんな貴女《あなた》、高尚な話を仕かけッこはありませんが、妙なことを云っていましたよ。はあ、来年の事を云っていました。西洋じゃ、別に鬼も笑わないと見えましてね。」
「来年の、どんな事でございます。」
「何ですって、今年は一度国へ帰って来年出直して来る、と申すことです。(日蝕《にっしょく》があるからそれを見にまた出懸ける、東洋じゃほとんど皆既蝕《かいきしょく》だ。)と云いましたが、まだ日本には、その風説《うわさ》がないようでございますね。
 有っても一向|心懸《こころがけ》のございません僕なんざ、年の暮に、太神宮から暦の廻りますまでは、つい気がつかないでしまいます。もっとも東洋とだけで、支那《しな》だか、朝鮮だか、それとも、北海道か、九州か、どこで観ようと云うのだか、それを聞き懸《かけ》た処へ、貴女が食堂へ入っておいでなさいましたもんですから、(や、これは日蝕どころじゃない。)と云いましたよ。」
「じゃ、あとは、私をおなぶんなすったんでございましょうねえ。」
「御串戯《ごじょうだん》おっしゃっては不可《いけ》ません。」
「それでは、どんなお話でございましたの。」
「実は、どういう御婦人だ、と聞かれまして……」
「はあ、」
「何ですよ、貴女、腹をお立てなすっちゃ困りますが、ええ、」
 と俯向《うつむ》いて、低声《こごえ》になり、
「女|俳優《やくしゃ》だ、と申しました。」
「まあ、」と清《すずし》い目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、屹《きっ》と睨《にら》むがごとくにしたが、口に微笑が含まれて、苦しくはない様子。
「沢山《たんと》、そんなことを云ってお冷かしなさいまし。私はもう下りますから、」
「どちらで、」
 と遠慮らしく聞くと、貴婦人は小児の事も忘れたように、調子が冴えて、
「静岡――ですからその先は御勝手におなぶり遊ばせ、室《へや》が違いましても、私の乗っております内は殺生でございますわ。」
「御心配はございません。僕も静岡で下りるんです。」
「お湯《ぶう》。」
 と小児が云う時、一所に手にした、珈琲はまだ熱い。

       三

「静岡はどちらへお越しなさいます。」
 貴婦人が嬉しそうにして尋ねると、青年はやや元気を失った体に見えて、
「どこと云って当なしなんです。当分、旅籠屋《はたごや》へ厄介になりますつもりで。」
 もしそれならば、土地の様子が聞きたそうに、
「貴女《あなた》、静岡は御住居《おすまい》でございますか、それともちょっと御旅行でございますか。」
「東京から稼ぎに出ますんですと、まだ取柄はございますが、まるで田舎|俳優《やくしゃ》ですからお恥しゅう存じます。田舎も貴下《あなた》、草深《くさぶか》と云って、名も情ないじゃありませんか。場末の小屋がけ芝居に、お飯炊《まんまたき》の世話場ばかり勤めます、おやまですわ。」
 と菫《すみれ》色の手巾《ハンケチ》で、口許を蔽《おお》うて笑ったが、前髪に隠れない、俯向《うつむ》いた眉の美しさよ。
 青年は少時《しばらく》黙って、うっかり巻莨《まきたばこ》を取出しながら、
「何とも恐縮。決して悪気があったんじゃありません。貴女ぐらいな女優があったら、我国の名誉だと思って、対手《あいて》が外国人だから、いえ、まったくそのつもりで言ったんですが、真《まこと》に失礼。」
 と真面目《まじめ》に謝罪《あやま》って、
「失礼ついでに、またお詫をします気で伺いますが、貴女もし静岡で、河野《こうの》さん、と云うのを御存じではございませんか。」
「河野……あの、」
 深く頷《うなず》き、
「はい、」
「あら、河野は私《わたくし》どもですわ。」
 と無意識に小児《こども》の手を取って、卓子《テイブル》から伸上るようにして、胸を起こした、帯の模様の琴の糸、揺《ゆる》ぐがごとく気を籠めて、
「そして、貴下は。」
「英吉君には御懇親に預ります、早瀬|主税《ちから》と云うものです。」
 と青年は衝《つ》と椅子を離れて立ったのである。
「まあ、早瀬さん、道理こそ。貴下は、お人が悪いわよ。」と、何も知った目に莞爾《にっこり》する。
 主税は驚いた顔で、
「ええ、人が悪うございますって? その女俳優《おんなやくしゃ》、と言いました事なんですかい。」
「いいえ、家《うち》が気に入らない、と仰有《おっしゃ》って、酒井さんのお嬢さんを、貴下、英吉に許しちゃ下さらないんですもの、ほほほ。」
「…………」
「兄はもう失望して、蒼《あお》くなっておりますよ。早瀬さん、初めまして、」
 とこなたも立って、手巾を持ったまま、この時|更《あらた》めて、略式の会釈あり。
「私《わたくし》は英さんの妹でございます。」
「ああ、おうわさで存じております。島山さんの令夫人《おくさん》でいらっしゃいますか。……これはどうも。」
 静岡県……某《なにがし》……校長、島山理学士の夫人|菅子《すがこ》、英吉がかつて、脱兎《だっと》のごとし、と評した美人《たおやめ》はこれであったか。
 足|一度《ひとたび》静岡の地を踏んで、それを知らない者のない、浅間《せんげん》の森の咲耶姫《さくやひめ》に対した、草深の此花《このはな》や、実《げ》にこそ、と頷《うなず》かるる。河野一族随一の艶《えん》。その一門の富貴栄華は、一《いつ》にこの夫人に因って代表さるると称して可《い》い。
 夫の理学士は、多年西洋に留学して、身は顕職にありながら純然たる学者肌で、無慾、恬淡《てんたん》、衣食ともに一向気にしない、無趣味と云うよりも無造作な、腹が空けば食べるので、寒ければ着るのであるから、ただその分量の多からんことを欲するのみ。※[#「睹のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》たのでも、焼いたのでも、酢でも構わず。兵児帯《へこおび》でも、ズボン
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