えで、城を明渡すんだから、煩《むず》かしいや。長火鉢の引出しから、紙にくるんだ、お前さん、仕つけ糸の、抜屑を丹念に引丸《ひんまる》めたのが出たのにゃ、お源坊が泣出した。こんなに御新造《ごしん》さんが気をつけてなすったお世帯だのにッて、へん、遣ってやあがら。
 ええ、飲みましたとも。鉄砲巻は山に積むし、近所の肴屋《さかなや》から、鰹《かつお》はござってら、鮪《まぐろ》の活《いき》の可いやつを目利して、一土手提げて来て、私が切味《きれあじ》をお目にかけたね。素敵な切味、一分だめしだ。転がすと、一《ぴん》が出ようというやつを親指でなめずりながら、酒は鉢前《はちめえ》で、焚火で、煮燗《にがん》だ。
 さあ、飲めってえ、と、三人で遣りかけましたが、景気づいたから手明きの挽子どもを在りったけ呼《よん》で来た。薄暗い台所《だいどこ》を覗く奴あ、音羽から来る八百屋だって。こっちへ上れ。豆腐イもお馴染だろう。彼奴《あいつ》背負引《しょび》け。やあ、酒屋の小僧か、き様喇叭節を唄え。面白え、となった処へ、近所の挨拶を済《すま》して、帰《けえ》って来た、お源坊がお前さん、一枚《いちめえ》着換えて、お化粧《つくり》をしていたろうじゃありませんか。蚤取眼《のみとりまなこ》で小切《こぎれ》を探して、さっさと出てでも行く事か。御奉公のおなごりに、皆さんお酌、と来たから、難有《ありがて》え、大日如来、己《おら》が車に乗せてやる、いや、私《わっち》が、と戦だね。
 戦と云やあ、音羽の八百屋は講釈の真似を遣った、親方が浪花節だ。
 ああ、これがお世帯をお持ちなさいますお祝いだったら、とお源坊が涙ぐんだしおらしさに。お前《め》さん、有象無象《うぞうむぞう》が声を納めて、しんみりとしたろうじゃねえか。戦だね。泣くやら、はははははは、笑うやら、はははは。」

       六十一

「そこでお前《め》さん、何だって、世帯をお仕舞《しめ》えなさるんだか、金銭ずくなら、こちとらが無尽をしたって、此家《ここ》の御夫婦に夜遁《よに》げなんぞさせるんじゃねえ、と一番《いっち》しみったれた服装《なり》をして、銭の無さそうな豆腐屋が言わあ。よくしたもんだね。
 銭金ずくなら、め[#「め」に傍点]組がついてる、と鉄砲巻の皿を真中《まんなか》へ突出した、と思いねえ。義理にゃ叶わねえ、御新造《ごしんぞ》の方は、先生が子飼から世話になった、真砂町さんと云う、大先生が不承知だ。聞きねえ。師匠と親は無理なものと思え、とお祖師様が云ったとよ。無理でも通さにゃならねえ処を、一々|御尤《ごもっとも》なんだから、一言もなしに、御新造も身を退《ひ》いたんだ。あんなにお睦じかった、へへへ、」
「おい、可い加減にしないかい。」
「可いやね、お前《めえ》さん、遠慮をするにゃ当らねえ、酒屋の御用も、挽子連も皆知ってらな。」
「なお、悪いぜ。」
「まあ、忍《ま》けときねえな。それを、お前、大先生に叱られたって、柔順《すなお》に別れ話にした早瀬さんも感心だろう。
 だが、何だ、それで家を畳むんじゃねえ。若い掏摸《すり》が遣損《やッそく》なって、人中で面《つら》を打《ぶ》たれながら、お助け、と瞬《まばたき》するから、そこア男だ。諾来《よしき》た、と頼まれて、紙入を隠してやったのが暴露《ばれ》たんで、掏摸の同類だ、とか何とか云って、旦那方の交際《つきええ》が面倒臭くなったから、引払《ひッぱら》って駈落だとね。話は間違ったかも知れねえけれど、何だってお前さん頼まれて退《ひ》かねえ、と云やあ威勢が可いから、そう云って、さあ、おい、皆《みんな》、一番しゃん、と占める処だが、旦那が学者なんだから、万歳、と遣れ。いよう旦那万歳、と云うと御新造万歳、大先生万歳で、ついでにお源ちゃん万歳――までは可かったがね、へへへ、かかり合だ、その掏摸も祝ってやれ。可かろう、」
 と乗気になって、め[#「め」に傍点]組の惣助、停車場《ステイション》で手真似が交って、
「掏摸万歳――と遣ったが、(すりばんだい。)と聞えましょう。近火《きんか》のようだね。火事はどこだ、と木遣で騒いで、巾着切万歳! と祝い直す処へ、八百屋と豆腐屋の荷の番をしながら、人だかりの中へ立って見てござった差配様《おおやさん》が、お前《め》さん、苦笑いの顔をひょっこり。これこれ、火の用心だけは頼むよ、と云うと、手廻しの可い事は、車屋のかみさんが、あとへもう一度|払《はたき》を掛けて、縁側を拭《ふ》き直そう、と云う腹で、番手桶に水を汲んで控えていて、どうぞ御安心下さいましッさ。
 私《わっし》は、お仏壇と、それから、蔦ちゃんが庭の百合の花を惜《おし》がったから、莟《つぼみ》を交ぜて五六本ぶらさげて、お源坊と、車屋の女房《かみさん》とで、縁の雨戸を操るのを見ながら、梅坊主の由良之助、と云う思入《おもいれ》で、城を明渡して来ましたがね。
 世の中にゃ、とんだ唐変木も在ったもんで、まだがらくたを片附けてる最中でさ、だん袋を穿きあがった、」
 と云いかけて、主税の扮装《いでたち》を、じろり。
「へへへ、今夜はお前《め》さんも着《や》ってるけれど。まあ、可いや。で何だ、痘痕《あばた》の、お前さん、しかも大面《おおづら》の奴が、ぬうと、あの路地を入って来やあがって、空いたか、空いったか、と云やあがる。それが先生、あいたかった、と目に涙でも何でもねえ。家は空いたか、と云うんでさ。近頃|流行《はや》るけれど、ありゃ不躾《ぶしつけ》だね。お前さん、人の引越しの中へ飛込んで、値なんか聞くのは。たとい、何だ、二ツがけ大きな内へ越すんだって、お飯粒《まんまつぶ》を撒《ま》いてやった、雀ッ子にだって残懐《なごり》は惜《おし》いや、蔦ちゃんなんか、馴染《なじみ》になって、酸漿《ほおずき》を鳴らすと鳴く、流元《ながしもと》の蛙《けえろ》はどうしたろうッて鬱《ふさ》ぐじゃねえか。」
「止せよ、そんな事。」
 と主税は帽子の前を下げる。
「まあさ、そんな中へ来やあがって、お剰《まけ》に、空くのを待っていた、と云う口吻《くちぶり》で、その上横柄だ。
 誰の癪《しゃく》に障るのも同一《おんなじ》だ、と見えて、可笑《おかし》ゅうがしたぜ。車屋の挽子がね、お前《め》さん、え、え、ええッて、人の悪いッたら、聾《つんぼ》の真似をして、痘痕の極印を打った、其奴《そいつ》の鼻頭《はなづら》へ横のめりに耳を突《つっ》かけたと思いねえ。奴もむか腹が立った、と見えて、空いた家《うち》か、と喚《わめ》いたから、私《わっし》ア階子段《はしごだん》の下に、蔦ちゃんが香《におい》を隠して置いたらしい白粉入《おしろいいれ》を引出しながら、空家だい! と怒鳴った。吃驚《びっくり》しやがって、早瀬は、と聞くから、夜遁げをしたよ、と威《おど》かすと、へへへ旦那、」
 め[#「め」に傍点]組は極めて小さい声で、
「私ア高利貸だ、と思ったから……」
 話も事にこそよれ、勿体ない、道学の先生を……高利貸。

       六十二

 ちと黙ったか、と思うと、め[#「め」に傍点]組はきょろきょろ四辺《あたり》を見ながら、帰天斎が扱うように、敏捷《すばや》く四合罎から倒《さかさま》にがぶりと飲《や》って、呼吸《いき》も吐《つ》かず、
「それからね、人を馬鹿にしゃあがった、その痘痕《あばた》めい、差配《おおや》はどこだと聞きゃあがる。差配様《おおやさん》か、差配様は此家《ここ》の主人《あるじ》が駈落をしたから、後を追っかけて留守だ、と言ったら、苦った顔色《がんしょく》をしやがって、家賃は幾干《いくら》か知らんが、前《ぜん》にから、空いたら貸りたい、と思うておったんじゃ、と云うだろうじゃねえか。お前《め》さん、我慢なるめえじゃねえかね。こう、可い加減にしねえかい。柳橋の蔦吉さんが、情人《いろ》と世帯を持った家《うち》だ、汝達《てめえたち》の手に渡すもんか。め[#「め」に傍点]組の惣助と云う魚河岸の大問屋《おおどいや》が、別荘にするってよ、五百両敷金が済んでるんだ。帰《けえ》れ、と喚《わめ》くと、驚いて出て行ったっけ、はははは、どうだね、気に入ったろう、先生。」
「悪戯《いたずら》をするじゃないか。」
「だって、お前《め》さん、言種《いいぐさ》が言種な上に、図体が気に食わねえや。しらふの時だったから、まだまあそれで済んだがね。掏摸万歳の時《ころ》で御覧《ごろう》じろ、えて吉、存命は覚束《おぼつか》ねえ。」
 と図に乗って饒舌《しゃべ》るのを、おかしそうに聞惚《ききと》れて、夜の潮《しお》の、充ち満ちた構内に澪標《みおつくし》のごとく千鳥脚を押据えて憚《はば》からぬ高話、人もなげな振舞い、小面憎かったものであろう、夢中になった渠等《かれら》の傍《そば》で、駅員が一名、密《そっ》と寄って、中にもめ[#「め」に傍点]組の横腹の辺《あたり》で唐突《だしぬけ》に、がんからん、がんからん、がんからん。
 「ひゃあ、」と据眼《すえまなこ》に呼吸《いき》を引いて、たじたじと退《すさ》ると、駅員は冷々然として衝《つ》と去って、入口へ向いて、がらんがらん。
 主税も驚いて、
「切符だ、切符だ。」
 と思わず口へ出して、慌てて行くのを、
「おっと、おっと、先生、切符なら心得てら。」
「もう買っといたか、それは豪《えら》い。」
 惣助これには答えないで、
「ええ、驚いたい、串戯《じょうだん》じゃねえ、二合半《こなから》が処フイにした。さあ、まあ、お乗んなせえ。」
 荷物を引立《ひった》てて来て、二人で改札口を出た。その半纏着《はんてんぎ》と、薄色背広の押並んだ対照は妙であったが、乗客《のりて》はただこの二人の影のちらちらと分れて映るばかり、十四五人には過ぎないのであった。
 め[#「め」に傍点]組が、中ほどから、急にあたふたと駈出して、二等室を一ツ覗《のぞ》き越しにも一つ出て、ひょいと、飛込むと、早や主税が近寄る時は、荷物を入れて外へ出た。
「ここが可いや、先生。」
「何だ、青切符か。」
「知れた事だね、」
「大束《おおたば》を言うな、駈落の身分じゃないか。幾干《いくら》だっけ。」
 と横へ反身《そりみ》に衣兜《かくし》を探ると、め[#「め」に傍点]組はどんぶりを、ざッくと叩き、
「心得てら。」
「お前に達引かして堪るものか。」
「ううむ、」と真面目で、頭《かぶり》を掉《ふ》って、
「不残《のこらず》叩き売った道具のお銭《あし》が、ずッしりあるんだ。お前《め》さんが、蔦ちゃんに遣れって云うのを、まだ預っているんだから、遠慮はねえ、はははは、」
「それじゃ遠慮しますまいよ。」
 と乗込んだ時、他に二人。よくも見ないで、窓へ立って、主税は乗出すようにして妙なことを云った。それは――め[#「め」に傍点]組の口から漏らした、河野の母親が以前、通じたと云う――馬丁《べっとう》貞造の事に就いてであった。
「何分頼むよ。」
「むむ、可いって事に。」
 主税は笑って、
「その事じゃない、馬丁の居処さ。己《おれ》も捜すが、お前の方も。」
「……分った。」
 と後退《あとじさ》って、向うざまに顱巻《はちまき》を占め直した。手をそのまま、花火のごとく上へ開いて、
「いよ、万歳!」
 傍《かたわら》へ来た駅員に、突《つん》のめるように、お辞儀をして、
「真平御免ねえ、はははは。」
 主税は窓から立直る時、向うの隅に、婀娜《あだ》な櫛巻の後姿を見た。ドンと硝子戸《がらすど》をおろしたトタンに、斜めに振返ったのはお蔦である。
 はっと思うと、お蔦は知らぬ顔をして、またくるりと背《うしろ》を向いた。
 汽車出でぬ。
 

     貴婦人

       一

 その翌日、神戸行きの急行列車が、函根《はこね》の隧道《トンネル》を出切る時分、食堂の中に椅子を占めて、卓子《テイブル》は別であるが、一|人《にん》外国の客と、流暢《りゅうちょう》に独逸《ドイツ》語を交えて、自在に談話しつつある青年の旅客《りょかく》があった。
 こなたの卓子に、我が同胞のしかく巧みに外国語を操るのを、嬉しそうに、且つ頼母《たのも
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