でも、羽織に紐が無くっても、更に差支えのない人物、人に逢っても挨拶ばかりで、容易に口も利かないくらい。その短を補うに、令夫人があって存する数《すう》か、菅子は極めて交際上手の、派手好で、話好で、遊びずきで、御馳走ずきで、世話ずきであるから、玄関に引きも切れない来客の名札は、新聞記者も、学生も、下役も、呉服屋も、絵師も、役者も、宗教家も、……悉《ことごと》く夫人の手に受取られて、偏《ひとえ》にその指環の宝玉の光によって、名を輝かし得ると聞く。
四
五円包んで恵むのもあれば、ビイルを飲ませて帰すのもあり、連れて出て、見物をさせるのもあるし、音楽会へ行く約束をするのもあれば、慈善市《バザア》の相談をするのもある。飽かず、倦《う》まず、撓《たゆ》まないで、客に接して、いずれもをして随喜渇仰せしむる妙を得ていて、加うるにその目がまた古今の能弁であることは、ここに一目見て主税も知った。
聞くがごとくんば、理学士が少なからぬ年俸は、過半菅子のために消費されても、自から求むる処のない夫は、すこしの苦痛も感じないで、そのなすがままに任せる上に、英吉も云った通り、実家《さと》から附属の化粧料があるから、天のなせる麗質に、紅粉の装《よそおい》をもってして、小遣が自由になる。しかも御衣勝《おんぞがち》の着痩《きやせ》はしたが、玉の膚《はだえ》豊かにして、汗は紅《くれない》の露となろう、宜《むべ》なる哉《かな》、楊家《ようか》の女《じょ》、牛込南町における河野家の学問所、桐楊《とうよう》塾の楊の字は、菅子あって、択《えら》ばれたものかも知れぬ。で、某女学院出の才媛である。
当時、女学校の廊下を、紅色の緒のたった、襲裏《かさねうら》の上穿《うわばき》草履で、ばたばたと鳴らしたもので、それが全校に行われて一時《ひとしきり》物議を起した。近頃静岡の流行は、衣裳も髪飾もこの夫人と、もう一人、――土地随一の豪家で、安部川の橋の袂《たもと》に、大巌山《おおいわやま》の峰を蔽《おお》う、千歳の柳とともに、鶴屋と聞えた財産家が、去年東京のさる華族から娶《めと》り得たと云う――新夫人の二人が、二つ巴《ともえ》の、巴川に渦を巻いて、お濠《ほり》の水の溢《あふ》るる勢《いきおい》。
「ちっとも存じませんで、失礼を。貴女、英吉君とは、ちっとも似ておいでなさらないから勿論気が着こう筈《はず》がありませんが。」
主税のこの挨拶は、真《まこと》に如才の無いもので。熟々《つくづく》視ればどこにか俤《おもかげ》が似通って、水晶と陶器《せと》とにしろ、目の大きい処などは、かれこれ同一《そっくり》であるけれども、英吉に似た、と云って嬉しがるような婦人《おんな》はないから、いささかも似ない事にした。その段は大出来だったが、時に衣兜《かくし》から燐寸《マッチ》を出して、鼻の先で吸つけて、ふっと煙を吐いたが早いか、矢のごとく飛んで来たボオイは、小火《ぼや》を見附けたほどの騒ぎ方で、
「煙草《たばこ》は不可《いか》んですな。」
「いや、これは。」主税は狼狽《うろた》えて、くるりと廻って、そそくさ扉《と》を開いて、隣の休憩室の唾壺《だこ》へ突込んで、喫《の》みさしを揉消《もみけ》して、太《いた》く恐縮の体で引返すと、そのボオイを手許《てもと》へ呼んで、夫人は莞爾々々《にこにこ》笑いながら低声《こごえ》で何か命じている。ただしその笑い方は、他人の失策を嘲けったのではなく、親類の不出来《ふでか》しを面白がったように見える。
「すっかり面目を失いました。僕は、この汽車の食堂は、生れてから最初《はじめて》だ。」
と、半ば、独言《ひとりごと》を云う。折から四五人どやどやと客が入った。それらには目もくれず、
「ほほほ、日本式ではないんだわねえ、貴下、お気には入りますまい。」
「どういたしまして、大恥辱。」
「旅馴れないのは、かえって江戸子《えどっこ》の名誉なんですわ。」
ボオイが剰銭《つり》を持って来て、夫人の手に渡すのを見て、大照れの主税は、口をつけたばかりの珈琲もそのまま、立ったなりの腰も掛けずに、
「ここへも勘定。」
傍《そば》へ来て腰を屈《かが》めて、慇懃《いんぎん》に小さな声で、
「御一所に頂戴いたしました、は、」
「飛んでもない、貴女、」
と今度は主税が火の附くように慌《あわただ》しく急《あせ》って云うのを、夫人は済まして、紙入を帯の間へ、キラリと黄金《きん》の鎖が動いて、
「旅馴れた田舎稼ぎの……」
(女俳優《おんなやくしゃ》)と云いそうだったが、客が居たので、
「女形《おやま》にお任せなさいまし。」
とすらりと立った丈高う、半面を颯《さっ》と彩る、樺《かば》色の窓掛に、色彩|羅馬《ロオマ》の女神《じょしん》のごとく、愛神《キュピット》の手を片手で曳《ひ》いて、主税の肩と擦違い、
「さあ、こっちへいらしって、沢山《たんと》お煙草を召上れ。」
と見返りもしないで先に立って、件《くだん》の休憩室へ導いた。背《うしろ》に立って、ちょっと小首を傾けたが、腕組をした、肩が聳《そび》えて、主税は大跨《おおまた》に後に続いた。
窓の外は、裾野の紫雲英《げんげ》、高嶺《たかね》の雪、富士|皓《しろ》く、雨紫なり。
五
聞けば、夫人は一週間ばかり以前から上京して、南町の桐楊塾に逗留《とうりゅう》していたとの事。桜も過ぎたり、菖蒲《あやめ》の節句というでもなし、遊びではなかったので。用は、この小児《こども》の二年《ふたつ》姉が、眼病――むしろ目が見えぬというほどの容態で、随分|実家《さと》の医院においても、治療に詮議《せんぎ》を尽したが、その効《かい》なく、一生の不幸になりそうな。断念《あきらめ》のために、折から夫理学士は、公用で九州地方へ旅行中。あたかも母親は、兄の英吉の事に就いて、牛込に行っている、かれこれ便宜だから、大学の眼科で診断を受けさせる為に出向いた、今日がその帰途《かえり》だと云う。
もとよりその女の児《こ》に取って、実家《さと》の祖父《おじい》さんは、当時の蘭医(昔取った杵《きね》づかですわ、と軽い口をその時交えて、)であるし、病院の院長は、義理の伯父さんだし、注意を等閑にしようわけはないので、はじめにも二月三月、しかるべき東京の専門医にもかかったけれども、どうしても治らないから、三年前にすでに思切って、盲目《めくら》の娘、(可哀相だわねえ、と客観《かっかん》的の口吻《くちぶり》だったが、)今更大学へ行ったって、所詮|効《かい》のない事は知れ切っているけれど、……要するにそれは口実にしたんですわ、とちょいと堅い語《ことば》が交った。
夫がまた、随分自分には我儘《わがまま》をさせるのに、東京へ出すのは、なぜか虫が嫌うかして許さないから、是非行きたいと喧嘩も出来ず。ざっと二年越、上野の花も隅田の月も見ないでいると、京都へ染めに遣った羽織の色も、何だか、艶《つや》がなくって、我ながらくすんで見えるのが情ない。
まあ、御覧なさい、と云う折から窓を覗《のぞ》いた。
この富士山だって、東京の人がまるっきり知らないと、こんなに名高くはなりますまい。自分は田舎で埋木《うもれぎ》のような心地《こころもち》で心細くってならない処。夫が旅行で多日《しばらく》留守、この時こそと思っても、あとを預っている主婦《あるじ》ならなおの事、実家《さと》の手前も、旅をかけては出憎いから、そこで、盲目《めくら》の娘をかこつけに、籠を抜けた。親鳥も、とりめにでもならなければ可い、小児の罰が当りましょう、と言って、夫人は快活に吻々《ほほ》と笑う。
この談話は、主税が立続けに巻煙草を燻《くゆ》らす間に、食堂と客室とに挟まった、その幅狭な休憩室に、差向いでされたので。
椅子と椅子と間が真《まこと》に短いから、袖と袖と、むかい合って接するほどで、裳《もすそ》は長く足袋に落ちても、腰の高い、雪踏《せった》の尖《さき》は爪立《つまた》つばかり。汽車の動揺《どよ》みに留南奇《とめき》が散って、友染の花の乱るるのを、夫人は幾度《いくたび》も引かさね、引かさねするのであった。
主税はその盲目の娘《こ》と云うのを見た。それは、食堂からここへ入ると、突然《いきなり》客室の戸を開けようとして男の児《こ》が硝子扉《がらすど》に手をかけた時であった。――銀杏返《いちょうがえ》しに結った、三十四五の、実直らしい、小綺麗な年増が、ちょうど腰掛けの端に居て、直ぐにそこから、扉《と》を開けて、小児を迎え入れたので、さては乳母よ、と見ると、もう一人、被布《ひふ》を着た女の子の、キチンと坐って、この陽気に、袖口へ手を引込《ひっこ》めて、首を萎《すく》めて、ぐったりして、その年増の膝に凭《より》かかっていたのがあって、病気らしい、と思ったのが、すなわち話の、目の病《わる》い娘《こ》なのであった。
乳母の目からは、奥に引込んで、夫人の姿は見えないが、自分は居ながら、硝子越に彼方《むこう》から見透《みえす》くのを、主税は何か憚《はば》かって、ちょいちょい気にしては目遣いをしたようだったが、その風を見ても分る、優しい、深切らしい乳母は、太《いた》くお主《しゅう》の盲目《めしい》なのに同情したために、自然《おのず》から気が映ってなったらしく、女の児と同一《おなじ》ように目を瞑《ねむ》って、男の児に何かものを言いかけるにも、なお深く差俯向《さしうつむ》いて、いささかも室の外を窺《うかが》う気色《けしき》は無かったのである。
かくて彼一句、これ一句、遠慮なく、やがて静岡に着くまで続けられた。汽車には太《いた》く倦《うん》じた体で、夫人は腕《かいな》を仰向けに窓に投げて、がっくり鬢《びん》を枕するごとく、果は腰帯の弛《ゆる》んだのさえ、引繕う元気も無くなって見えたが、鈴のような目は活々と、白い手首に瞳大きく、主税の顔を瞻《みまも》って、物打語るに疲れなかった。
草深辺
六
県庁、警察署、師範、中学、新聞社、丸の内をさして朝ごとに出勤するその道その道の紳士の、最も遅刻する人物ももう出払って、――初夜の九時十時のように、朝の九時十時頃も、一時《ひとしきり》は魔の所有《もの》に寂寞《ひっそり》する、草深町《くさぶかまち》は静岡の侍小路《さむらいこうじ》を、カラカラと挽《ひ》いて通る、一台、艶《つや》やかな幌《ほろ》に、夜上りの澄渡った富士を透かして、燃立つばかりの鳥毛の蹴込《けこ》み、友染の背《せなか》当てした、高台細骨の車があった。
あの、音《ね》の冴えた、軽い車の軋《きし》る響きは……例のがお出掛けに違いない。昨日《きのう》東京から帰った筈《はず》。それ、衣更《ころもが》えの姿を見よ、と小橋の上で留《とま》るやら、旦那を送り出して引込《ひっこん》だばかりの奥から、わざわざ駈出すやら、刎釣瓶《はねつるべ》の手を休めるやら、女|連《づれ》が上も下も斉《ひと》しく見る目を聳《そばだ》てたが、車は確に、軒に藤棚があって下を用水が流れる、火の番小屋と相角《あいかど》の、辻の帳場で、近頃塗替えて、島山の令夫人《おくがた》に乗初《のりそ》めをして頂く、と十日ばかり取って置きの逸物に違いないが――風呂敷包み一つ乗らない、空車を挽いて、車夫は被物《かぶりもの》なしに駈けるのであった。
ものの半時ばかり経《た》つと、同じ腕車《くるま》は、通《とおり》の方から勢《いきおい》よく茶畑を走って、草深の町へ曳込《ひきこ》んで来た。時に車上に居たものを、折から行違った土地の豆腐屋、八百屋、(のりはどうですね――)と売って通る女房《かみさん》などは、若竹座へ乗込んだ俳優《やくしゃ》だ、と思ったし、旦那が留守の、座敷から縁越に伸上ったり、玄関の衝立《ついたて》の蔭になって差覗《さしのぞ》いた奥様連は、千鳥座で金色夜叉を演《す》るという新俳優の、あれは貫一に扮《な》る誰かだ、と立騒いだ。
主税がまた此地《こっち》へ来ると、ちとおかしいほど男ぶりが立勝って、薙放《なぎはな》しの頭髪《かみ》も洗ったよう
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